「還暦」という節目に、『嘉門タツオ 祝⭐︎還暦 オールタイム・ベスト』の『〜環盤〜』(日本コロムビア)と『〜暦盤〜』(ビクターエンタテインメント)を2つのレコード会社からそれぞれリリースするという、嘉門タツオさん。 芸名も「嘉門達夫」から「嘉門タツオ」へと改名されました。デビューして36年、風刺や世相、人の心の奥底の感情を織り込んで笑わせる、嘉門さんは今何を思うのでしょうか。
1983年7月21日のデビュー以来、自作の歌は短いものも含めれば2万を超えるという嘉門タツオさん。 還暦を前にデビュー時の「達夫」をカタカナで「タツオ」としたのには、どんな意味があるのでしょうか。
「今年の3月25日に60歳になりました。還暦を前にして、一昨年、よりフットワーク軽く歳を重ねていきたいと思い、貫禄も威厳も漂わせないカタカナにしたのです」
嘉門さんの本名は鳥飼達夫。高校卒業と同時に笑福亭鶴光さんのもとに弟子入りし、笑福亭笑光を名乗りました。
「当時、毎日放送ラジオの『ヤングタウン』(以下、ヤンタン)という深夜放送が関西では大ブームになっていたのです。三枝さん(現文枝)、谷村新司さん、鶴光さん、あのねのねの原田伸郎さん、鶴瓶さん、さんまさん。白井貴子さん、渡辺美里さん、今井美樹さん… そこからスターになっていくアーティストもたくさんいました。そこで、僕はそのヤンタンに出られるようになりたいと、16歳のとき、鶴光師匠を出待ちして、弟子入りしたのでした」
憧れのヤンタンにも出演でき「内弟子恨み節」をギターで語ったり、毎週カラダを張った記録に挑戦する「笑光の笑い求めて三千里のコーナー」など、彼にしかできなコーナーも作られました。しかし、やがて嘉門さんはこう気づきます。
「僕は落語家になりたいわけじゃなかった。『ヤンタン』に出たかったんだ。そして歌をうたいたいという夢があった。…そう気づいてしまったら、だんだん師匠と師匠の奥さんとの間にも精神的な軋轢が出てくるようになりました」
笑福亭笑光は破門になりました。おおもとのプロダクションも黙っているわけがなく、メディアを追われた嘉門さんは、旅に出ることに。
「ヤンタンのスタッフも、共演していたあのねのねの原田伸郎さんも、みんな僕のことを『しゃあないやっちゃな。がんばりや』という笑顔で送ってくださいました。僕も旅すがら、やっぱりヤンタンの大プロデューサーだった渡邊一雄さんのことを考えていました。やっぱり彼が僕のこれからの人生のキーマンになるはずだと。だから、忘れられてはいかんと、北海道をヒッチハイクしていて瀬棚という町に着いたときに『なべさん食堂』という看板を見つけて、写真を撮って手紙を書いて送ったりしていました。かわいいヤツと思われたい一心で(苦笑)」。
北の果てから写真入りの手紙を送ってくる嘉門さんの帰りを、ヤンタンのスタッフは期待しながら待っていたようです。必ず一皮むけた人間になって帰ってくると信じて。
その頃、芸能事務所のアミューズが大阪進出していて、支社を作ったばかりでした。ヤンタンの渡邊プロデューサーの伝で、嘉門さんはそこでアルバイトできることになったのです。本名の鳥飼達夫として。
ちょうど桑田佳祐さんが海外のアーティストの曲をカバーするユニット「嘉門雄三&VICTOR WHEELS」で活動していた頃。
「幸運なことに、その大阪のライブで、僕に前座に歌ってくれとご指名が来ました。500人のキャパシティのところに800人いるぐらいの超満員。そこで僕はできたばかりの『ヤンキーのにいちゃんの歌』などをうたわせてもらいました」
客は爆笑につぐ爆笑。コンサートが終わると、打ち上げで桑田さんがこう言ってくれました。「ねーねー、鳥飼っていう名前、硬くない?」。
「『じゃあ、名前つけてもらえませんか』『嘉門雄三はもう使わないから使う?』と。『じゃ、嘉門だけください』。それで僕は嘉門達夫になったのでした」
幸運をタイミングよく形にする力が、嘉門さんにはあったのでしょう。 ギター一本でも客を引き込む嘉門さんの曲は、替え歌だけでなく、オリジナルもとても覚えやすくできています。もともとどうして、こういう歌をうたおうと思ったのか。その原点はフォークやニューミュージックにあったようです。
「吉田拓郎さん、井上陽水さん、泉谷しげるさん、西岡たかしさん。そういうギターを弾きながら歌う人に憧れたのがきっかけでした。そのうち、僕が中2のときに、あのねのねが出てきた。これや、と。ちょうど家庭用のテープレコーダーが普及し始めた頃でした。友達と社会風刺の真似事や、自分の生活のなかで『たっちゃん、大きなったね〜と言うおばちゃんがうっとうしい』といった小ネタで歌を作りあった。中高の間に60曲できて、公民館でコンサートをしたくらいでした」
今や2万曲以上になった「嘉門ソング」は今も考えて考えて作るそう。
「できるだけ言葉の無駄を省いて、ソリッドにしていく作業です。なるべく歌だけで伝えないといけないと思っています。コンサートでトークを入れすぎると水増し感が出ますから」。