《1》
古い本の匂いに、人々が吸い寄せられるように店に入っていく。
東京・神保町は古本屋の多い街だ。その一方で、大小の出版社がひしめく街でもある。
まるで過去という膨大な資料をもとに、未来という新しい書物が生まれていくような、不思議な街なのだ。
そんな街のはずれにある源来酒家で、名物の麻婆豆腐麺を一人で食べる鍵崎多美子は、無音で着信のきたスマホに気づいた。
なぜ、麺を食べているときに限って誰かが電話をかけてくるのだろう。
横井直之、と名前が出ている。入社以来、長い付き合いの大手代理店の出版担当だ。
「しもしも」
ふざけて出る余裕が、今日はたまたま、多美子にはあった。
「嬉しいなあ、そういうバブルっぽいこと言ってくれるの、タミーだけだよ」
「でしょ。手短かにお願い」
「あのさ、19日の夜、空いてない?」
「なんで」
こういう電話は、先に用件を聞くに限る。とんでもない話だったら、後でスケジュールが埋まっていたと言えばよいのだ。多美子は、仕事に関してはそういうオトナのスキルを身につけていた。
しかし、横井は本当に困っているふうだった。
「あのさ、暗闇でご飯食べる、っていうイベント知ってる?あれ、長いこと、うちの同期がやってるんだけどさ。今回、人が集まらないみたいでさ。もちろん招待するからさ、何人でも。タミーも来てくんないかな。… いや『Luck Me』の編集長様をお呼び立てするだけの場所なんだよ、ホテルのさ、バンケットを抑えてるんだよ。少人数でちょっと値段も高い設定でさ。…なんつーの? シェフズ・テーブルってやつ?」
ホテル名とシェフズ・テーブルと聴いて、多美子は行ってもいいな、と内心即決した。しかし、簡単にOKするより、最後まで「貸し」にするほうが得策だろう。
「わかった。もう1回、後でスケジュール見てメールする」
「期待していい?」
「もちろん。ほかでもない横ちゃんの直電じゃない」
「やー。オレの顔が立つわ。頼むね。んじゃ」
多美子は電話を切ると同時にスマホ上のスケジュールを確認し、猛然と再び麻婆麺に向って、麺をほとんど残して豆腐を完食した。
そしてもう一度スマホを自撮りモードにして鏡代わりに覗き込むと、おでこと鼻の頭の汗をハンカチで押さえ、さっと立ち上がった。