
“クミコ”として再デビューして25年、日本のシャンソン界に新たな風を吹かせてきたクミコさん。彼女の歌は歳を重ねるごとに、さらに深く広く、人の心にしみ渡っていくようだ。1曲1曲の物語を大切に歌う彼女に、今改めてシャンソンとの人生を、また、歌うことへの想いを聴いた。
微笑みと憂いが共存する穏やかな表情。インタビューの場所に現れたクミコさんには、歌っていなくてもそこはかとなく「歌う人」の気配が漂っていた。
シャンソン歌手の「クミコ」としてデビューから43年経つというが、当時からの優しい印象は変わらない。
そんなクミコさんが初めてシャンソンと出会ったのは、早稲田大学に通っていた頃。
「まだ噴水があった頃の日比谷公園で、たまたまボーイフレンドとデートをしていて。なんかちょっといい感じだなあと思っていたら彼が『ちょっといいところへ行こう』と言うんです。いいところってどこかしらと期待してついていったら、銀座7丁目あたりで『この下に音楽がある』と言うんです。それが”銀巴里”でした」
銀巴里は、東京で最も有名だったシャンソンのライブハウス。
「平日の午後4時くらいだったのに、カルテットの生演奏で生歌を聴くことができました。4人ぐらいの歌手が入れ替わり立ち替わりで歌うの。贅沢な時代。豊かな時代ですよね」
その頃、クミコさんは演劇部を辞め、自分でも歌おうとしていた時期だった。
「そのときに、もし、私がこれから歌を志して、いろんなことがダメになっても、最後にはここがあるな、と、なんとなく思ったんです。銀巴里にとっては失礼な話ですよね。でもある意味、本当にそうなったかもしれない。それも不思議な気がします」
その後、クミコさんは24歳のとき、組んでいたバンドのボーカルとしてYAMAHAのポピュラーソングコンテストにもチャレンジした。
「世界歌謡祭に出て落っこちたんだけど、そのときのグランプリは円広志さんの『夢想花』。でもポプコンに関わっていた人は本当に多くて、その後、渡辺真知子さんにお会いした時もそんな話になりました。あれは手っ取り早く売れる一つの形を示してくれました。そう思えば、あの頃って、プロへの間口が広かったんですよ」。
