《2》
6月19日。汐留にあるホテルのバンケットルームの前には、それでも数十人の人が集まっていた。
「なんだ。いっぱいいるじゃないの」
鍵崎多美子はひとりごとを言い、関係者受付で名刺を出した。今日はENFOLDのパフスリーブの黒いトップスにCOSのスリットの入ったサテンの長いタイトスカートを合わせた。サンダルはいつかのプレスセールで買ったきらきらのMIUMIUだ。
「『Luck Me』の鍵崎様ですね。お待ちしておりました」
横井の部下らしき20代の女性がぺこんと首だけ曲げてお辞儀をした。多美子は長い髪をかきあげてにっこり笑った。
「どうも。お世話になっています」
お辞儀の下手な女性はうなずきながら言った。
「お手洗いなどはすまされていますか。入場の際はすでにアイマスクをしていただきまして、テーブルまで私がご案内することになっています」
少しのぞくと、バンケットルームはほとんど真っ暗だ。
多美子は言われるがままにアイマスクをすると、彼女の肩に手を置いた。ゆっくりと歩き出すが、いきなりの暗闇は想像以上に怖いものだった。ハイヒールを履いていなくてよかった、と、思った。
「こちらのお席におすわりいただきますね。1テーブルに6人ずつとなっております。こちらのテーブルは、ごめんなさい、女性が4人、男性が2人ですね」
なんであやまるんだろう、と多美子は思った。そしてやっと気づいた。はっはあ、こういう場を出会いにする輩もいるのだろう。 椅子の背につかまりながら、そっと腰をおろす。
どうやら、多美子の左隣に座ったのは男性のようだ。気配と、匂いでわかった。そんなに若くはないようだ。いやひょっとしたら、多美子より年上の50代だったりして。加齢臭とまではいかない、微妙な脂くささというか、男くささがある。男という動物の匂い。それに、煙草の匂いが混じり合ったり、酒の匂いが混じり合ったり、彼らの世代は若い頃からもっていた匂いだ。
今の20〜30代の男性にはあまりないしない、男の匂い。
「よろしくお願いします」
いい声だった。あら、どっかで聞いたことがあるな。ひょっとしてアナウンサーじゃないかな。
やがて女性があと3人座り、もう一人、濃い柑橘系の香水をつけた男性が座った。苦いオレンジのような、猛烈に強い匂いだ。
多美子の右隣の女性は、声から想像して20代。向いとその隣の女性は、自分より少し年下だろうか。
料理が運ばれて来る毎に、かちゃかちゃとカトラリーとお皿が接触する音がする。まずは前菜。
どうやら、白身魚のカルパッチョのようだ。
感覚でソースをナイフで魚にまぶし、フォークで少しずつ口に運ぶ。
目を開けているときは感じない、舌にまったりと絡む魚の甘み。ソースのなかのビネガーのまろやかな酸味。ややつぶした粒胡椒の辛味。
「あ、ピンクパッパーですね」
多美子は思わず言葉を発した。たぶんそれが、そのテーブルで最初に上がった声だった。それで堰を切ったように、みんなが喋り出した。
真向いから、落ち着いた涼やかな声がした。
「口のなかで香りがぱーんと弾けますね。ソースとよく合ってる。ソースもピンクなのかもしれませんね。赤ワイン・ビネガーかしら」
「あら、料理にお詳しそうですね」
「はい、私、一応、そういう仕事をしていて。今日はたまたま休みで、来られたんです」
それを聞いたその隣の女性がゆっくり言った。
「お店の場所はどちらですか」
「中目黒と池尻大橋の間くらいです」
多美子はその場所に興味をもった。そのあたりは美味しいレストランが多いし、よく訪ねる和食の店もあった。
「後で教えてくださいね」
話が盛り上がってきたが、多美子の右隣の女性は一向にまだ話す気配を見せない。男性2人も、どう会話に入っていいのかわからない様子だった。