【ここまでのあらすじ】
暗闇でご飯を食べるイベントで偶然知り合った女性誌編集長の鍵崎多美子(50代)、フラワーアーティストの内畠麻貴(40代)、カフェでパティシエをする野添有紗(30代)、旅行代理店勤務の殿村未知(20代)。
4人はそれぞれにちょっと傷つきながら、楽しみながら生きている。有紗の店での女子会を終え、世代を超えて、何か通じ合うものを感じ始めていた。
鍵崎多美子は華やかな雑誌業界にうっすらと翳りを感じていた矢先、ウエブの世界で活躍する岸場鷲士を紹介される。
《1》
翌日は、土曜日だったが、多美子は午前中は会社にいると決めていた。休日のどちらか一日は会社で莫大な数のメールの返信や伝票整理などをすることにしていたのだった。
しかし今日は、一大業務もあった。昨日出会った岸場鷲士にメールをするという。いや、とても業務とは言えないが。
休日のオフィスはがらんとして、人気のない、しんとした匂いがした。机の数は100以上ある。白い天井には何十という蛍光灯が規則正しく整列している。普段は意識すらしないその箱が、一人作業をしていると、なぜか居場所のように思えた。
デスクトップを立ち上げ、メールを開くと、たくさんの未読に混じって、昨夜、あれから会社に戻って打ったと見られる、鷲士のメールがあった。
「鍵崎多美子様
さっきはお世話になりました。
あれから横井さんをタクシーに乗せて、今、会社に戻ってきたところです。横井さんとは、ここ2年くらいのお付き合いですが、僕も昔、ラグビーをやっていたことがあって、気が合います。雑誌業界のことはまだまだ勉強しないといけないのですが、鍵崎さんとご一緒に仕事できたら頼もしい感じがしました。
いつでも参上しますので、ぜひなんでも気軽に呼び出してください。
岸場鷲士
PS 鍵崎さん、いい匂いがしました!」
読み終えて、多美子は思わずひとりごちた。
「何言ってんのよ…」
心のなかで「惚れるじゃないの」と付け加えた。酔っ払った頭に残っている様々な彼の残像をかき集めた。結婚指輪はなかった。いや、はめない主義なだけだろう。腕時計はしていた。ブランドまではわからなかった。顎のラインと無精髭。白Tシャツの首元。…
多美子はしばらくぼんやりして、顔をきりっと整えてから、返信した。
「岸場鷲士様
昨日はこちらこそお世話になりました。
お待たせしていたのではないでしょうか。たぶん、横井さんからうちの雑誌についてはお聞きになっていたかと思います。これからどうなるかわからないのですが、社内で詰めて、ウエブのことはなんらかのご相談をさせていただくことになるかもしれません。その折は、どうぞよろしくお願いいたします。
またご連絡させていただきます。
鍵崎多美子
PS 鷲士さんは、ジンの匂いがしました。」
そう書いて、PSの部分を消してから、送信した。送信した後で「愛想がなかったかしら」と、多美子は後悔した。