《2》
「いい匂い、か…」
多美子は自分の手首を鼻のあたりに引き寄せて嗅いだ。朝、シャワーの後につけたシャネルの「ガブリエル」という最新の香りがまだミドル・ノートを漂わせていた。
残務を片付け、会社を出ると、その足はデパートの香水売り場に向かっていた。「ガブリエル」は新製品としての頂き物だ。彼はこの香りが好きだったのだろうか。それとも、その奥に多美子自身の匂いを見つけてくれたのだろうか。もし、次に違う香りをつけていたら、気付いてくれるだろうか。
大人の恋支度は香りから始まるのかもしれない。
多美子はふわふわと、香水売り場をさまよった。最近の香水は本当にバリエーションが増えた。多美子が20代の頃は、デザイナーズ・ブランドや、コスメ・ブランドが出す香水がメインだった。カルバン・クラインのエタニティ、ディオールのポワゾン、エスティ・ローダーのビューティフル、ランコムのトレゾァ。… 時代の景色や、そのとき付き合っていた男性の思い出と香りが同じ記憶の瓶に詰まっている。そこを去るとき、その香りともさよならしてきた。
それでも次から次へと、新しい香りが性懲りも無く登場する。今、多美子が立ち止まって手にとった瓶の香りは、今までに香ったことのないピュアさと強さをもっていた。
「これはいい匂いですね」
同じくらいか、やや年下くらいのベテラン店員がカードに吹き付けて、少し振って、多美子に手渡してくれた。
「限定品のチュベローズです。異性を虜にする香りと言われています」
「あはは、虜に」
心の奥を見透かされたような気がして、多美子はあえて茶化すように笑った。
「本当にね。日本語では月下香、中国語では夜来香。チュベローズの畑を横切ると、我を忘れて愛し合ってしまう可能性があるから、夜更けに恋人同士での通行は禁止されていたという逸話もあるくらいです」
「へえ」
値段を見ると、普通の香水の2倍はした。
「いいお値段ですね」
「いろいろと「ブレンドしてあるものはこれまでにもたくさんありましたが、このチュベローズはエッシェンシャルオイルをかなり贅沢に使っています。甘ったるくなりすぎないのがいいですね」
多美子は勧められるがままにそれを買ってしまった。そして、次に彼に会うときにこれをつけていたら、香りが変わったと気付いてくれるかしら、とふと思った。
「公私混同」
そんな言葉がふっと浮かんだ。やばいのではないか、これは。でもチュベローズの香りをかいでいると、そんな気持ちも吹き飛んでしまった。