【ここまでのあらすじ】
暗闇のイベントで知り合った4人の女たちのなかで、一番年上の鍵崎多美子は大手出版社の女性誌の編集長だったが、ウエブ化を推めていた折、馴染みの代理店の横井の紹介で知り合ったIT制作会社社長の岸場鷲士と出会う。ところが、岸場は未成年との異性交遊で書類送検され、会社を離れることに。多美子は彼のことを公私ともにあきらめきれず、一緒に会社を立ち上げることを決意する。
《1》
「株式会社ミッション・グレイス 代表取締役社長 鍵崎多美子」
そう繊細な書体で書かれた名刺を、多美子は集学社の元上司である編集担当の役員に差し出していた。
名刺からはふわりとネロリの香りが漂った。
「優雅な使命、ですか。あなたらしい、素敵な社名ですね」
役員の小笠原は温和な笑顔でそう言った。しかしべっ甲のようなメガネの奥の目は、笑っていなかった。
辞めて早々、よくも売り込みに来れたものだ。そう思っているのかもしれない。
多美子は先に送ってあった企画書のプリントアウトを小笠原に渡した。
「ご検討いただけますでしょうか」
『Luck me』を含む3つの女性誌をウエブ化する提案だった。もちろん、広告営業付きだ。多美子は言った。
「すべてを一度に任せていただけるとは思っていません。実験的に私が一番内容も読者層もわかっている『Luck me.com』からやらせていただけませんでしょうか」
小笠原は大きな手でぱらぱらと企画書をめくり、一番最後の見積書、売り上げ試算のページで、両眉をくいっとあげておどけた笑顔をつくった。
「広告は紙と連動してくれないと困るから、君のところには任せられないね」
多美子は頷いた。そう来るだろうという想定はあった。ウエブに広告が流れてしまえば、本誌の広告は一層減る。部数が数万部あったところで、広告がなくなってしまえば、あっという間に赤字になる。
「もちろん、本誌連動の広告を中心に動かせてもらおうとは思っています」
小笠原は静かに首を振った。
「今までのうちと大手広告代理店との付き合いを踏みにじるようなことはできないよ」
多美子の脳裏に横井の顔が浮かんだ。確かに、これまで奔走してくれた彼らを相手に戦うようなことはできなかった。気持ちもついていかないと思ったが、それより何より、広告を取るという実力でも絶対にかなわない相手だった。
「では、編集コンテンツだけでも任せていただけませんか」
小笠原は、もう一度、彼女の名刺に目を落とした。集学社ではない、なんの後ろ盾もなさそうなその会社の名前。でも、鍵崎多美子という人物が編集者として優秀だったことは明らかだった。
「わかった。その部分は君に預けようと思う。でも、この予算は無理だよ」
「ありがとうございます」
多美子の口から「いくらなら」という言葉が出て来なかった。そんな交渉はしたことがなかったし、とにかく少しでも仕事になればという思いだったから。
結局、見積もった7掛けの予算で話はついたが、多美子は重い気持ちだった。そのまま、編集部に挨拶にも行かず、集学社をあとにした。