編集者、人気リゾート会社の広報と華々しいキャリアを歩んできた岡崎美紀さん。2007年から習い始めた茶道を2018年からは教える立場に。自宅マンションの和室を茶室に改装し、日々の暮らしでお茶と向き合う。そこに、香の役割も存在していました。
東京・渋谷のスクランブル交差点あたりの喧騒を離れた閑静な住宅地。岡崎さんの茶道教室は、そのマンションの中の一室にありました。
玄関を入ると、障子に囲まれた茶室と、奥に広々とした日当たりの良いリビングダイニング。和と洋が違和感なくあるのは、洋間のインテリアも畳の色に馴染むアイボリーや自然素材でまとめられているからかもしれません。
茶室には本格的な炉もあり、床の間には時節に応じたお軸がかかっています。
「2011年、震災の後にここに引っ越してきました。茶室をどうするか考えて、まだ茶道を習い始めて4年ほどだったのに、思い切って茶室を作ろうと思ったんです」
優しいご主人は反対されることもなく、岡崎さんの思い通りにできることに。
「早すぎる決断でしたが、いずれは教える立場になりたいという思いがあったのです。ただ、お茶を教えるというのは、料理を教えるとかピアノを教えるというのと違って、場自体の美しさからもう始まっているんですね。でも7年間は脱いだ着物を風通しするための部屋、みたいになっていました。夫は『物置だね』と言っていました(笑)」
出版社で編集者をし、その後、2015年までは星野リゾートの広報に。2018年に、いよいよ茶道教室のホームページを作りました。
「ホームページの作り方も習いに行って、ブログをまめにあげて。そうすると、当時、渋谷茶道教室と検索するとGoogleでトップに出るようになって、問い合わせがどんどん来ました。一時期は30人もいらしていたんですが、今は23人。これ以上増やすつもりはないので、受付もストップしています」
ネットで検索して訪れるお弟子さんは、建築士の人、料理人、IT企業の方など外国人の方もいらっしゃるそう。
「英語茶道も学ばなければと思うくらい、皆様熱心で、いろいろと説明に難しい質問もされるんです。例えば『このお軸の言葉の意味は』とか」
お軸の言葉は漢詩である禅語からから引用されていることの多く、ニュアンスを説明するのは確かに難しそうです。
ちなみに本日のお軸は「壺中日月長」。
「悟りの境地を説いた言葉ですが、悟りって英語でどう訳するか…」
微笑む岡崎さんは、お弟子さんの疑問に100%答えようとする濃やかな先生なのです。
「茶道をビジネスにするつもりはないんです。職業でも興行にもしない。私自身が忙しく働いていた時期に、茶道で脳をきれいにリフレッシュしていたんですね。脳をストレッチしていた感じ。その感じを守りたい。たくさんお弟子さんを増やしてというのをやってしまったら、今までと同じになってしまうから」
教えることには、一所懸命です。
「自分のお弟子さんは守り育てなくては、という想いは強いです。以前、よその茶道教室に一度だけ通わせることになった時は『白い封筒に新札でお稽古料を入れて、本日はどうぞよろしくお願いします、と扇子を前にして礼をするんですよ』といつもより細かく伝えてしまいました。人様の前にお弟子さんが出た時に、お弟子さん自身がきちんと振舞えるように指導したいと思っています。その感覚は独特ですね。我が子を旅に出すような。お客様に恥をかかせない、弟子は守る」。
茶道にはいくつかの流派がありますが、岡崎さんは裏千家の茶道を守っています。
「七事式」と呼ばれるプログラムには、香をきく「聞香」も入っているのだとか。
「江戸中期に茶道人口が増えたとき、五人一組で行う七事式という修練のプログラムを作ったのが当時の裏千家と表千家の宗匠でした。裏千家は香道志野流と縁が深く、その後も“聞香”を取り入れた七事式が歴代宗匠によって制定されています。」
普段のお手前では、炭のにおいを消し、空気を清浄にする意味もあり、夏は香木、冬は練り香を使います。
「初炭手前といって、種火を入れておき『お炭を置かせていただきます』といって、湿し灰、炭を入れ、最後に練香を入れるんです。練香は二粒か三粒取り、三角錐形に手で整えておきます。これは懐石の前に行い、その時間の間に釜の中の水が湧くという流れ。この茶室を作ったとき、社中の方が、お祝いにとこの香合をくださいました」
岡崎さんの香合は、トルコブルーに藍という、モダンな風合いもある美しいもの。
「5月から10月の夏のお点前は風炉を使い、11月から4月は炉を使います。夏は白檀などの香木を、冬は練香を使います。冬の方が濃厚な香りが合いますし、炭のにおいを消す意味もあるでしょう」
今日の練香は「黒方」を使っていただきました。
「私は沈香の香りが好きです。これにも入っていますね。玄関、キッチンや外玄関で沈香のお線香をたくことが多いです。お茶の時間は非日常を作らないといけません。生活している空間と切り離したいときには、お香に助けてもらいます」
時間をかけて所作を学び、各地を行脚して茶道具を集め、お軸を揃える。その時間と空間、経験といったすべてが一瞬に結実するお茶の世界。その深遠で尊い世界のなかに、一部として存在する香は、今までとは違ったものに見えました。
香の世界もまた、深く果てしないようです。
photo by Yumi Saito
http://www.yumisaitophoto.com/
Text by Aya Mori