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その1「1964年」
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  • その1「1964年」

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●おかあさんのお乳

 東京オリンピックのあった年、私は大阪で生まれた。
もちろん前回の、1964年である。
新幹線は丸い鼻でビュワーンと走り始めた。
道路は夏にはぷつぷつと黒いタールが出現するようなアスファルトで覆われていた。
空を横切る電線は時々たわんでいた。
大阪で一番背の高い建物は、大阪城だったと思う。

日本は高度成長期に差し掛かったばかりだった。
人々は一生懸命働いていた。働けば働くほど、生活に豊かさを象徴する何かがもたらされた。
それはカラーテレビであったり、自動洗濯機であったり、クーラーであったり、トースターであったり。
小さな応接間に、来客用の椅子とテーブル、そしてピアノやオルガンがあることだったり。
夢はアメリカのテレビドラマ『奥様は魔女』に出てくる生活様式だったように思う。

私が生まれたのは、大阪市旭区にある千林商店街の駅にほど近い、小さな産婦人科だった。
大きな病院と違い、助産師さんのいる産院で、生まれてすぐの赤ちゃんも母親のそばに寝かせてくれた。まだ助産師さんは産婆さんと呼ばれていた。
看護師さんは看護婦さんで、白い制服に、あの台形の布地でできた白い帽子を載せていた。
産院には、母親たちの乳の匂いがうっすらと漂っていた。
病室の天井には蛍光灯があったが、日当たりのいい部屋のそれは、昼間は使われていなかったように思う。
生まれたときの記憶などないだろうとほとんどの人は訝るだろうが、私はなぜか、そのスイッチの入っていない蛍光灯を思い出すことができる。小さな部屋の
蛍光灯のついていない昼間の感じ。夏の午後、母とまどろむ感じ。

初孫として生まれた私を、祖父母はたいそう歓迎した。
母方の祖父母はその千林商店街のほど近くで、町工場を営んでいた。
祖父は私が帰って来る日、抱きかかえて道行く人に見せて回ったという。まあ、
SNSなどない世の中だから、ストレートに自慢するしかなかった。いや、まっすぐに嬉しさを表現せずにいられない、素直な男だった。

「どうでっか。かわいおまっしゃろ。賢い子なんですわ」

まだどうなるか私のことを、そう言って見せられた見ず知らずの人たちは、いったいどんな顔をしたのだろうか。
日傘をさしかけ、しばらくその腕のなかの私を覗き見てくれただろうか。

そんな私が首も座らない10月に、東京オリンピックは開催されたらしい。
その頃、結婚して間もない両親は、商店街のはずれにある寿荘というアパートから、もう少し母方の祖父母の家に近い旭区清水の文化住宅に引っ越してきていた。
文化住宅は、清滝温泉という銭湯と、八幡神社に近かった。
赤ちゃんのときの私は、昼間はまどろみ、夜に爛々と目を輝かせた。両親が寝ようとすると、泣いた。
隣も2階も、そんなに分厚い壁天井ではない。泣き声は近所迷惑で、母はそんな私をおぶって、歩いて3〜4分のところにある八幡神社へ連れていった。母の背中に頬をくっつけていると、私はすこぶる安心した。そのあたたかさを、望んでいたのだろう。
住宅街はアパートや長屋や、たまに大きな瓦屋根の邸宅があった。小さな煙草屋のシャッターを曲がると、石造りの鳥居が見える。信号のない小さな車道を渡って鳥居をくぐる。しんとした夜中の気配。社務所とお清めの水を傍に、格子戸が閉まった神殿がある。格子戸を覗くと、黄緑色の雪洞が見えた。

「あおい灯ぃついてるやろ。あそこで神さんが見てはるねんで。泣いたらあかんて言うてはるで」

背中の私をやさしくゆすりながら、母は決まってそう言った。その雪洞を見ているうちに、本当に眠くなった。おなかがあたたかくなって、眠りに落ちた。 そんな夜を、何度も繰り返したように思う。 私はまた、夏の午後の産院の部屋の気配と同じくらいに、黄緑の雪洞の灯を今も思い出せる。


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