昭和40年代。高度成長期の大阪。工場の黒い大きなラジオから漫才コンビ「大丸ラケット」の漫才コマーシャルが流れていた。
それはまるで、毎回生で漫才をしているかのようだった。
幼稚園にあがる前の幼い私は、工場に働く大人たちに一人ずつ声をかけながら、それを楽しんでいた。
「きみきみ、家を買うなら辰巳の方角やで」
「家具なら辰巳〜辰巳家具」
ついには一緒にコマーシャルを覚えてしゃべるようになった。よくしゃべる私を大人たちは面白がってくれた。どう見たって、仕事の邪魔だったろうに。
母方の祖父母の町工場は親類縁者が6〜7人で働くプラスチックやアクリル板の印刷工場だった。
母はその工場の経理担当で、毎日、家から5〜6分のそこへ私と出勤し、お風呂までもらってから、家に帰った。
祖父母の住居となっている母屋から縁側をつたって、鉄の階段から2階へと上がると、そのラッカーの匂いに満ちた空間があった。
鉄の階段は白いペンキが塗られていたが、ところどころはげてそこから乾いたペンキをめくることができるほどだった。
工場の真ん中には大きな作業机があり、そこで祖母を含む3〜4人のおばちゃんたちが出来上がったアクリルの銘板にワックスをかけ、布で拭き取りをしていた。
私は時々「手伝うわ」と威勢良く座り、見よう見まねで真剣に磨いた。つもりだった。
「じょうずじょうず。あやちゃん、ここでずっと働いてくれるか」
「うーん。でも、もうちょっとしたら、幼稚園行かなあかんし」
真面目に受け答えては、大人たちを笑わせていた。
3〜4歳の私には自分が子どもだという認識はあまりなかった。大人の会話は理解していて、それにふさわしい返しをした。「大人なぶりすな」と、叱られたこともあったが、おおむね、みんな付き合ってくれた。
あんなに忙しそうだったのに、あの頃の大人たちはおおらかだった。そして、危ないことには近寄らないように、目を配ってくれていたように思う。