「さあ、いくで」
小さな私にそう声をかけて。
祖母は、1日に2度は、歩いて3〜4分のところにある千林商店街に買い物に出かけた。
千林商店街は、全長1キロもあり、途中で今市商店街に枝分かれもしていて、しかも裏通りにも公設市場などがひしめいている、活気のある商店街だった。
昭和40年代はまだ、守口市や門真市から大阪市旭区にあるそこまで、定期券をもって買い物に来る主婦までがいたらしい。
さて買い物だというと、祖母は家でしている白いエプロンではなく、よそゆきのエプロンに付け替えた。よそゆきは、夏はグレー系のチェックのサッカー地であったり、冬は紺地の縁取りのあるバティックだったりした。
私は彼女が買い物かごを持つ手と反対のほうの手にぶら下がり、家々の前を歩いた。アパートがあったり、文化住宅があったり、お屋敷があったりと、上流も中流も下流も等しく住める街だった。黒塀で茅葺屋根のお屋敷は、祖父母の家の土地を貸してくれていた。
「梅原家はもともと静岡の武士の流れや。武田信玄の家来やったんやで。先祖はこの上辻へ流れてきて、江戸時代にはここら一帯は全部梅原家やったんや。ところがな、おじいちゃんのおじいちゃんも、おとうさんの裕次郎さんも博打うちでな。全部取られてしもたんや」
嘘かと思う昔話も、近所の梅原家の本家の人が言っていたので、少しは本当なのかもしれなかった。
カメラ屋、果物屋、煙草屋を過ぎ、大きな荒物屋を過ぎた頃、駅のガードになる。ガード下には靴屋がずらりと黒い紳士靴を並べていた。
ガードをくぐると、和菓子屋の大きな店が見える。
色とりどりの菓子が、ガラスを張った木箱に並んでいた。
工場の3時のおやつだけを、ここへ買いにくることもあった。
「よもぎ5つと、桜餅5つちょうだい」
春ならそんな感じだろうか。あっさりした餡が美味しい和菓子ばかりだった。
午前中の買い物は、工場のお昼ご飯の支度もあって、かなりたくさん買いものをするのが常だった。
忙しいので、祖母は出来合いのおかずもうまく利用した。
かなり奥まったところに、てんぷら屋さんと、とんかつやコロッケを売るフライ屋さんが並んでいた。
そこで野菜のてんぷらや、コロッケを買った。あるいは、お肉屋さんでその店特製の焼き豚を買って、それにもやしとキャベツを炒めたものを付け合わせたりした。
工場の人たちは、何が出ても美味しい、美味しいと言って食べた。焼き豚定食は20 代の叔父たち若者に人気だった。もやしとキャベツにはウスターソースをたっぷりかけて、焼き豚をお箸で切って、かきこんだ。
ソースの香りは、満腹を誘う幸せの香りだった。