「勉強部屋がいるんとちゃうか」
私と二つ年下の弟に、個室を与えるべく、森家は引っ越しをした。
当時の親たちの理想の家庭は、アメリカのホームドラマにあったのだと思う。
「パパ、ママ、おやすみなさい」
そう言って子どもは子ども部屋で寝る。それが正しく自立するための教育だと、おそらく昭和40年代の日本の親は多かれ少なかれ考えていた。
それに4歳からピアノを習い始めたが、文化住宅にはピアノは似合わない。弾けば端から端の家まで聞こえてしまう。
そこで森家は文化住宅から300メートルも離れていないところにあった、戸建賃貸に引っ越すことになった。
奥には大きな母屋があり、大家さんが住んでいる。その前に二つ、家が隣り合っていて、そのうちの2階建のほうを借りることになった。
なんだかお金持ちになったようで私は嬉しかった。
住んでみると、ねずみも出たりするような古い家だったのだけれど。
玄関を入ると、すぐ入ったところに3畳の応接間があった。
3畳と言っても当時の1畳は広くて、アップライトのピアノと、2脚の応接セットと、本棚が置けた。ピアノの上にも、父が会社のアクリルで手作りしてきた本棚が釣り下がっていて、世界文学全集が並んでいた。
その隣にはダイニングキッチンがあり、奥に居間、床の間のある和室、廊下、突き当りに小さい庭があって、大きなもみの木があった。
残念ながら隣り合った二つの家には、どちらにもお風呂がなかった。
2階はロフト的な構造になっていて、真ん中の広い部屋の右手は屋根の形に向こうが下がっている小部屋が2つあり、左手は全面棚のある物置になっていた。
引っ越したばかりの2階には、やたらとモンキーズのシールやポスターが貼られていた。どうやら前に住んでいた女の子がファンだったらしい。
窓側の小部屋には、ベッドも一つ残されていて、私はそこで寝ることになった。
うちの隣の家には、当時まだ母屋の長男夫婦が住んでいた。
ご主人も奥さんも、眉の濃い、顔立ちのはっきりした人だった。
奥さんは、沖縄からお嫁に来た人らしかった。
一人息子のノリヒロくんは、私より確か2歳上だった。
私はなぜだか、彼のことを「ノリカズくん」とよく言い間違えた。最初は訂正していた彼も、だんだん何も言わなくなるほどだった。
だからここでも以後、ノリカズくんと書くことにする。
両親から譲り受けた濃い眉と顔立ちの彼は、心根のやさしい子で、面倒見がよかった。がたいも大きくて、安心感のある子だった。
弟も含め、私たちはノリカズくんときょうだいのように一緒に遊んだ。近所の塀で「だるまさんがころんだ」(わが町では「ぼんさんがへをこいた」と言っていた)をしたり、鬼ごっこをしたり、一緒にお風呂に入ったりした。
あるとき、みんなで怖い話をした。ノリカズくんがユーレイのものまねをした。
両手を胸の前にたらして、目を細め、ゆっくりと近寄ってくる。
そのゆっくりさ、が、子どものできる範囲を超えているような演技力だった。
何かの映画で見たものを真似ていたのだろうか。
本当に怖かった。
なぜそんな怖い静かな動きができるのだろうと思うほどだった。