昭和40年代、高度成長期の大阪の下町は、出前というのがすごく多かった気がする。
今のように家族でファミレスに行く、という文化が現れたのはもうちょっと後で、まずは家族揃って母親が「ご飯作るのん、めんどくさい」となったときに、登場するのが出前だった。
寿司、うどん、洋食、中華。セレクトはその程度。店の親父や若い衆が、自転車かバイクで、アルミ製の岡持ちに入れて届けてくれるのである。
母方の祖父母の家の町工場では、景気のよいとき、土曜日の昼にはこの出前がやってくることが多かった。
「今日はなににする」
「うどん、か」
「はい、なにうどんか、あやちゃん、聞いてきて」
祖母に言われ、私は注文をとりにいく。
「おじいちゃん、なにうどんにする?」
「けつねうろん」
きつねうどんのことである。どう聞いたってけつねうろん、としか聞こえなかったが。
私はいつもたまごとじで、あんかけを頼む人もいれば、かやくの人もいた。
最初に頼んでいたうどん屋さんは、名前を忘れてしまったが、腰の曲がったおばあさんがやっていた。
注文しても「あい」と言ってはいるものの、なかなか出来てこない。
「まだですか」
母が電話をすると「今日は持っていく人がいないからとりにきて」と言われる。
母と叔母が取りに行くのに私もついていったことがあった。
おうどんが丼に入った状態のものが並べてあるだけだ。 そして驚くべきことに、おばあさんはうたた寝していた。
「え」
「あ、ごめんごめん」
おばあさんは折れ曲がった姿勢のまま、甘い香りのする茶色く煮詰めたお揚げさんがうどんの上に1枚、2枚と載せた。そして大きな鍋からひしゃくで入れたつゆのポットを台の上に置いた。
両手にそれらをもちながら、母と叔母は話していた。
「あかんな、もう、あのおばちゃん」
「そやなあ。どっかよそ探さなあかんな」
そんなことを言っていたある日「梅ヶ枝」という店のおじさんが営業に来た。
「その先のほうの角でやってます」
「そらよろしいな」
梅ヶ枝のおじさんは、浪曲師のようなよく通る声をしていた。
玄関の前で、ピンポンを押すよりも「うぅめぇがえです」と言ってくれるほうがよく響いた。
味もまあまあだった。鰹節の香りがぷうんとする、色の薄い、甘めのおつゆ。やや柔らかめの太めのおうどん。
祖父はやっぱりけつねうろん、だった。お揚げさんはやっぱりとびきり甘く煮込んであった。私は子ども心に甘すぎると思った。
大人になって、ミナミの「今井」できつねうどんを食べたとき、美味しくてびっくりした。鰹節と昆布のだしは絶妙のバランスで、甘さはぎりぎりに抑えてあり、ごくごくと飲み干せた。お揚げさんも甘すぎずしょっぱすぎず、斜めに切った青ねぎの味までが洗練されているように思えた。
あの「梅ヶ枝」のおうどんはど真ん中ではなかった。しかし、なぜかその味をしっかり思い出せるというのは、ある意味完成された店だったのかもしれない。
それに、店で食べたらもっと美味しかったのではなかろうか。
出前では、やっぱり、麺が伸びてしまう。