どのシスターも、自分がなぜ修道女になったかを教えてはくれなかったが、シスターKだけは、ある日の脱線で教えてくれた。
それは確か古文の授業で『源氏物語』のどこかの節を読んでいたときのことだったと思う。おそらく、紫の上が出家したあたりではないだろうか。
「私はね、大学時代に恋人がいたのです。愛していました。でもその彼は、僕は神様のところへいくといって、神父になる道を選んだのです。だから私も神様のところへきました」
「…」
教室の女生徒全員が、固唾を飲んだ。校則で男女交際を禁じられている我々にとっては衝撃だった。しかも生涯独身を貫くシスターから聴いた最初で最後の恋愛話だった。
「つまらない脱線をしました」
授業が終わるチャイムが鳴った。黒縁の眼鏡の奥の目が、いつもと違うような気がした。お辞儀をして、颯爽と黒いベールを翻して、いつものようにシスターKは去っていった。
私はナガオさんと話し合った。
「それは大恋愛でしょう」
「プラトニックであったとしてもね」
「うーん…」
「あの人なら美人だし、いくらでも良いところへお嫁に行けたでしょうにね」
「歌舞伎の他の役者さんと結婚したかも」
「…後悔してないのかな」
私はその後、卒業するまで随分とシスターKにはお世話になった。ライオンズクラブの弁論大会に出ることを応援してくださったりもした。
一昨年も、東京での同窓会でご一緒した。こんなに長くお世話になっているが、あの話は本当だったのかとは二度と聴くことができないし、聴かなくてもいいと思っている。
いつも自分に正直で、素直でいること。綺麗な笑顔を他者に向け続けること。シスターKに教わり続けている一番大事なことは、そこにあるから。
もはや私の母校は名前が変わってしまい、そこにあった修道院もなくなってしまった。
フランスのルルドにあった、その修道会の本部ごと、なくなってしまったのだという。
あんなに永遠にそこにあるかと思えたものも、なくなってしまう。
今の世の中には、そうやって母校がなくなたっり、その名前が変わってしまったりということは、もはや珍しくないようである。
普遍なものはどこにあるのだろう。いや、どこにもない、きっと。
ただ、あの時、シスターKが「…神様のところへきました」と言った心持ちは永遠なんだと思う。
誰かの心に、誰かの思いが届く。そんな瞬間にしか、普遍というものは、もうない。
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photo Keita Haginiwa
Hair&Make Takako Moteyama