1986年の夏、私は、大学のクロークルームの就職求人票の張り紙の前で、テレビのカメラに囲まれた。
眩しいライトを浴びせられると、足がすくんで動けなくなった。
「『MBSナウ』ですが、就職活動されていますか」
「はい。しています」
「気になる求人は、ありそうですか」
「うーん… なかなか厳しいですね」
眉を顰める私の顔が、夕方のニュースに出た。
家族も友人たちも、所属していたタレント事務所でも大笑いになった。
私はマスコミ志望で、一般企業を受けるつもりはなかった。それなのに取材を受けてそれらしい顔をしていたという。
この年は、男女雇用機会均等法が施行された年だった。それまで、大卒でも女子は「事務職」採用であったが、「総合職」採用が促され、男性と肩を並べて働くことを要求されたのである。
とはいえ「総合職」の中身はまだ謎だった。
それに、いわゆる人気企業はほとんどコネクションで決まるという噂もあった。事実、友人の1人はすでに大手保険会社で初の総合職採用が決まっていた。
その年の春頃まで、私には結婚前提で付き合っていた年上の男性がいた。
その人と結婚して、放送タレントの仕事を続けながら、暢気に生きていけたらいいと、彼と別れるまでは本気で考えていた。それはなんとも浅はかな理想だった。
しかし、初めて「結婚」が間近にあった恋だったから、失恋は長引いた。
東京に最終面接を受けに行った会社も2社あったが「本気で働く気のなさ」が見抜かれて落ちた。
すべて失くしてゼロになった時に、私は本気でやりたいことを思い出した。
子どもの頃からずっとずっと、思い続けていたこと。
作家になりたかったのだった。
しかし、読書以外に、自分に体験としての言葉が足りないことは実感していた。
20代は死ぬ気でなんでもやろう。なんでも本気で、なんでも体当たりでやろう。
経験を。体験を。
しかし、その強い思いと裏腹に「就職」とか「安定」に向かって周囲の友人たちが血眼になる姿に、私は迷い、悩んだ。
自律神経失調症のような状態だったと思う。
その夏の終わりには結石で救急車に乗り、なんとなくそれまでの暢気な人生に暗雲が立ち込めた。
ボロボロな気持ちの頃、スポーツニッポンのコラムの連載が始まるのだが、その話はまた別に書くことにして。