山口学長は当時の名物教授だった。専門は国際文化。岩波文庫に『大君の都』というオールコックという英国人が書いた日本滞在記があって、その翻訳者としても知られていた。
甲南大学や桃山学院大学でも教えていて、その教え子たちがホテルマンやバーテンダーになっている人もいた。
パーティーには欠かせない明るい人柄から、人脈も広かった。本当はシャイな性格なのに、飲むと陽気になるらしい。…
私は山口ゼミの友人たちに教えてもらった情報を思い出しながら、坂を昇った。
神戸の坂はハイヒールのかかと潰しである。2〜3度昇り降りすると、ゴムがすぐ取れて、カンカンと金属の音に変わった。
蔦が這うにしむら珈琲店の会員制の店や、DANNY BOYというアイリッシュ・パブの電飾を通り過ぎ、SONEは北野坂の途中にあった。
石造の重厚な建物。おそらく大人だらけで煙草の匂いがするんだろうな。数段の階段を上り、重たいドアを開ける。途端に端正なドラムとベースのリズムの上で、ピアノの音が自由自在に転がり煌めいていた。
テーブル席にたくさん人がいた。
真ん中にドラム。右の方にベース。ピアノは左にあって、その周りがカウンターになっていた。
そのピアノ周りのカウンターの一番奥に、山口学長が座っていた。
大きな背中。四角い顔を囲む白黒の髪と白黒の髭。
「おう。よう来たね」
バランタインと書かれたウィスキーと、氷のポットと、グラス。
店の人が私にもすぐグラスを持ってきてくれた。
「うちの学生。よろしく」
「よろしくお願いします」
店の人は恭しく頭を下げた。
私は膝に手を置いて頭を下げた。どういうふうにそこいいたらいいかよく分からなくて、とりあえず水割りをもらって乾杯すると、ぐいっと飲んだ。
バニラのような甘い香りと、うっすら木を燻したような香りがした。味よりも、香りが入ってきた。
ウィスキーは香りを飲むのだと思った。
「おお、君、結構飲めるんやな」
「それで、派遣されてきました」
「あはは」
今度は何を喋ったらいいのか分からなかった。
「ジャズがお好きなんですか」
「ジャズはいいよ。神戸はジャズよ。MADE IN KOBEよ」
学長はまたウィンクした。
「お腹は空いてないか」
「はい。太平閣で豚まん食べてきました」
「それはいいね。僕はいつもDANNY BOYでサンドイッチを食べてくる」
その日、あとはなんの話をしたのだろう。
よく憶えていないが、話が途切れたら曲を聴けばいいし、ライブの合間にさっきベースを弾いていたピンクのポロシャツ姿の店主が話をしにきてくれたりした。
いい時間だった。私は火曜と木曜の夜どちらか1週間に1度は行くようにした。
そして11時24分の梅田行き三宮最終に飛び乗ることも多くなった。
学長は海外出張の話や、卒業生のその後の話をしてくれることが多かった。
卒業式の少し前のことだった。
「就職はどこや」とおっしゃるので「決まっていなくて。とりあえずタレント業をしながら…」と言うと、小さなアドレス帳を内ポケットから出して、よかったらなんやけど、と、言いづらそうに言った。
「…事務の仕事とかも、ちょっとやってみたらどうや。女ばかりで広告代理店をやってる優秀な先輩がいてな。週に何回かでもいいし、きっと勉強になるから、行ってみたらどうや。その代わり、時給600円やけどな」
私は4月からそこへ行くことにした。喋りの仕事だけでは心許なかったし、事務の仕事や常識的なことを学んでおきたい、という気持ちがあったから。
卒業式の後はホテルで謝恩会があった。その前に、山口ゼミの友人たちが、宝塚の岸田写真館で記念写真を撮るのに「もりちゃんも来て」と言ってくれた。
「え、私、山口ゼミちゃうやん」
「ううん、でもな、光朔のお守りしてくれたから」
友人たちは「そやそや」と言って、私の手を引いた。
謝恩会の二次会は、ホテルのセラーバーだった。学長の周りにみんなで座ると、新しいバランタインのボトルがやってきた。
17年、だった。
「いつものとちゃいますやん」
「高いんちゃいますか。ホテルやし」
皆が口々に言うと、学長はまたウィンクして言った。
「こんな時にいい酒を飲まずに、いつ飲むんや」
私はそうか、とものすごい嬉しい気持ちが込み上げてきて、乾杯して、またグィッと飲んだ。
普通のより、甘い香りも木の香りも鮮やかだった。
そして、学長からSONEでしょっちゅう聴いたあの一言を思い出していた。
「人生で一番大事なのは、金でも名誉でもない。誰と飲むか、よ」
セラーバーで、順番に学長とダンスを踊った。私も踊った。
「いろいろ…ほんとに…ありがとうございました」
「うん、自信もって、な」
ワルツのリズムで言葉が返った。
分厚い胸元から、そのウィスキーの香りがした。
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photo Keita Haginiwa
Hair&Make Takako Moteyama