大学時代から上京前まで、月1回のペースで通ったケーキ教室は、神戸の北野坂の上にある邸宅だった。
周囲のどの異人館よりも大きな敷地にはテニスコートまであり、キノコのとれそうな聳え立つ裏山もその家のものらしかった。
はあはあ言いながら最後の急な坂を登り切ると、ここはフランスかと思えるような優美な背の高い門がある。脇の小さい門を入ると、母屋とは別にケーキ教室用の離れがあった。
「こんにちは」
私たちはその『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家のような離れに入っていく。足元に、顔がコリーでお腹のところはむくむくの毛をした茶色い小型犬がやって来る。
「いらっしゃい」
そこに生まれ育った先生が微笑んで出迎える。セミロングでゆるく毛先をカールした黒髪は、黒いリボンのバレッタで束ねられていた。いつ見ても真っ白いエプロンが、この人の清潔を物語っていた。
彼女はしょっちゅうヨーロッパへ行っては、小型アイスクリーム製造機や、サーモンピンクの皮張りで背中が貝殻のような形のソファや、オレンジ色のマセラッティや… そんなものを仕入れてきた。
その時、特別に輸入してもらってみんなで買ったペティナイフというのは、今も私のキッチンにある。
先生の通る声がレシピを説明し始めると、エプロンをした6人ばかりの生徒たちは熱心にプリントを覗きこむ。
「今月もイタリアン・メレンゲが出てきます」
緊張が走る。イタリアン・メレンゲはグラニュー糖に水を少し入れてきっかり117度に煮詰めたところからが勝負だからだ。
「先生、これは116度とか118度ではダメなんでしょうか」
「ダメです。117度です」
「お菓子って厳しいですね…」
私がそういうと、みんなが笑った。心の中で、その完璧主義は、ひょっとしたら不幸なんじゃないかと思った。幸せってもっと曖昧なものではないのかな。いや、そこまで厳しく選んだ幸せこそが完璧なのかもしれない。その結果として、この大きな美しい住まいがあるのかもしれない。
でも私は無理だな。私はいつも117度でないといけないものは無理。だからこういうところには住めない人だな、そんなことをぼんやり思いながら、温度計を見つめた。
117度。卵白を加え、急冷させると、ツヤツヤのメレンゲができる。ほんの少し食紅を落とすとピンク色になった。
薪に見立てたブッシュ・ド・ノエルも、ピンクを纏わせればなんとも可愛らしくなった。厳しく温度管理しながら作った先にある、つややかなピンク。これができるのなら、やはり117度を頑張るべきなんだ、と私は思い直した。