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連載読み切り短編小説『香りの記憶』第13回『びおら』
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    第13回『びおら』

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 終わった、と、純子は思った。
 あんなに憧れて、やっと得たパティシエとしての理想の職場だった。睡眠時間を削って働いて、寝ている間も夢で考え続けて、それでも楽しい職場だった。
 そこは誰もが素敵だと思えるような、軽井沢のホテルのレストランだった。
 でもまさか、世界中を同じ流行病が襲って、ホテルもレストランも、いらないものになるなんて。
 そんな恐ろしいこと、誰ひとり、思ってもみなかった。
 もっと恐ろしいことも、短いメールで知らされた。

「ホテル休業につき、無期限の休職期間とします」

 その通知メールを、純子はぼんやり10秒見て、そのまま画面を消すだけではなくタブレットの電源を落としてしまった。ずっと見つめていたら、画面を叩き割ってしまいそうな気がしたからだった。  どうしたらいいんだろう。
 無期限ってどういうこと? 退職じゃないよね?
 …終わった。
 夢が終わった。
 ゆるくグラデーションがかかるように終わるのではなくて、シャットダウンされてしまった。
 まるで今閉じた画面のように。
 毎朝、気合を入れて後ろに束ねる髪をそのままにして、とにかく、これからのことを考えなくてはと思った。
 今はホテル近くのアパートを借りていた。古いけれど、1階で、そこそこ広かった。南向きの窓があって、全開すると、白樺の木立の香りがした。
 もうちょっとしたら春なのにな。その空気を吸い込むうちに、ちょっぴりだけ気持ちが上がった。
 もう一度、タブレットを開けると、新着メールが届いていた。
 上司の光岡由蔵からだった。
 光岡は料理長で、純子がこのレストランを受けたとき、採用してくれた恩人だった。

上野純子様

この度は私の力及ばず、こんな形になってしまい、申し訳ありません。
1年ほどは休業ということですが、わずかばかり給金は出るようです。
しかし、お互い、どこか他の場所で働かなくてはなりません。
私はこの辺りの農家にお世話になって、一から野菜について学ぼうかと思っています。
上野はどうしますか。
上野ほどの技量があれば、どこでも通用すると思うけれど、この状況ではなんとも僕も他を紹介しようがありません。
ごめんなさい。
せめてものお詫びの気持ちで、今日、宅急便ですみれの花の砂糖漬けを送りました。甘く、良い香りがします。去年、フランスで買ってきたものです。お守りみたいにもっていました。

光岡由蔵

 上野純子様、と様がついているのに、文中ではいつものように「上野」と呼び捨てる光岡さんが光岡さんらしいと思った。そして、ここを去らないといけないのは、光岡さんのせいじゃない。
 長時間労働でも苦しいと思ったことがなかったのは、料理長にみんなへの愛があったからだと、今更ながらにいろんな場面を思い起こしていた。
 グループラインではなく、ひとりひとりにこうしてメッセージを送っていることも、光岡らしいと思った。

 その翌々日、純子は当面の荷物だけをまとめて、故郷の大阪行きの高速バスに乗っていた。
 乗っているのは純子と、あと2人だけだった。
 おろした髪は白いマフラーで包み、茶色いダウンコートの中に入れた。
 バスの椅子はあまり座り心地が良くなく、ガタガタと揺れる振動は新幹線と違って寝づらかった。
 膝の上に、透明のセロファンの袋に入った、すみれの花の砂糖漬けがあった。
 一粒、口に運んだ。カリリと白砂糖の甘さが広がり、その奥に柔らかい花のほのかな香りが来た。
 トゲトゲイガイガした心をふっと包み込むような、魔法のようなやさしい香りだった。
 純子はふと、これはいっぺんに食べるものじゃないな、と、ガサゴソとセロファンの口をラベンダー色のリボンで結え直した。
 光岡が、これをお守りのようにもっていた理由が少し、わかったような気がした。

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