「おかえり。バス、疲れたやろ」
出迎えた母親は、家の中でもマスクをしていた。私が他所から帰ってくるからか、と、純子は一瞬、憮然とした。
「ただいま」
そう言って、自分はマスクを取った。そのマスクをテーブルに置こうとすると、母親はマスクケースなるものを差し出して「ここに入れて」と言った。
「大丈夫やって」
純子はため息をついた。
「お父さんは」
「部屋でパソコンしてる。リモートやん」
「へえ」
「あんたの仕事はそういうわけにはいかんもんな」
「うん」
「まあしばらく休んだらええやん」
「近所で、ケーキ屋とかパン屋とかないかな。雇ってくれへんやろか」
帰るなり、大阪弁になる自分がすごい、と純子は思った。そして無意識のように働き口を探していた自分にも驚いた。
もっと驚いたのは母親だった。
「一流ホテルで働いてた人がこんな大阪の下町のケーキ屋で、かいな」
そう言って、首を振った。
純子は「ちょっと散歩してくる」と、またコートを着た。あてはなかったが、街のケーキ屋がどうなっているのか、気になって仕方がなかった。
一番近いケーキ屋は、純子が子どもの頃からやっている「びおら」という店だった。
主の夫婦は自分の両親と同じくらいの年齢だろう。
シャッターが降りていて、黒マジックで書いた張り紙があった。
「店主、体調不良につき、しばらく休業します。コロナではありません」
コロナではありません、と書き添えないと、人が来なくなってしまうのだろうか。純子は押しつぶされそうな気持ちになりながら、しばらくそれを見つめていた。
と、声をかける人がいた。
「上野さんとこのお嬢さんちゃう」
その店の奥さんだった。若い頃の彼女の顔の面影があったけれど、髪はすっかり白くなり、目のあたりが窪んで、ぱちっとした目が小さくなっていた。
「そうですけど。あの、ここの奥さんですよね」
「聞いたよ〜。なんや軽井沢の有名なホテルでパティシエさんしてはるんやろ。お休みとって帰ってきはったん?」
「いえあの、コロナで、ホテルが閉まってしもうて」
「あ。ごめん」
びおらの奥さんは悪いことを聞いてしもうた、という顔をしたが、意を決したように言った。
「うちのお父ちゃん、もうあかんねん。匂いせえへん、味もわからんて言うねん」
やっぱり流行病か、と、純子は俯いた。
奥さんは恐る恐る、その顔を覗き込んだ。
「あんた、代わりにケーキ焼いてくれへん…かなあ」
「え。いいんですか」
純子は顔をあげ、大きく目を見開いた。