
翌朝、純子はびおらの厨房にいた。
メンテが行き届いていない、古い機材の、鉄くさいにおいがする。
床にはところどころ、小麦粉がうっすらと白く積もっている。
アンテナが斜めに立った古いラジオからは何も流れてこない。
ホテルとはまったく違う粉、カカオ、バター、香料。
カビ臭い布団のようなこの店のこれまでに押しつぶされそうだ。
自作のレシピ・ノートを手に、純子は呆然と立ち尽くしていた。
「この店のケーキをつくらなきゃなんだ」
厨房では、標準語が出た。純子は壁にかかっていた店主のレシピノートを手にした。
ショートケーキ、モンブラン、サバラン、チョコトルテ、シュークリーム。…パウンドケーキ。
思い出した。子どもの頃、ここのパウンドケーキが好きだった。焼けた割れ目のところに卵黄がかかっていて、そこだけが妙に美味しくて。焼き立てはパンのようにやわらかくて、焼き立てを目当てに母親と向かったものだった。
「よし」
純子は、久しぶりに髪をキュッと束ね、白いコック帽を被った。
まず、そのパウンドケーキを作ろうと思った。シンプルで美味しいバターケーキ。そして、焼き立ての時間を店頭に告知する。
シュークリームも焼いた。カスタードクリームは、注文をもらってから絞り込むようにした。
ケーキの自宅需要はそれなりにあった。
有名ホテルのパティシエが街に帰ってきたという口コミは瞬く間に広がった。
店には朝から晩まで甘いバニラの香りが立ち込めるようになった。