びおらの店主は、病が治っても後遺症に悩んでいた。しかし、まさかの天使のような純子の登場に、礼を言わねばと、妻と店へやって来た。
「こんな人だったっけ」と見紛うほど、店主は背が曲がり、小さくなっていた。
純子はコック帽を取り、頭を下げた。
それを店主は制した。
「いやいや、お礼を言わないとあかんのはこっちの方で。もう全部、上野さんの儲けで、家賃だけこっちに払うてもろたらええと思ってるくらいです」
「でも、材料は使わせてもらってますし」
そんなやりとりの後、店主はやっと厨房を見回した。
「綺麗に掃除もしてもろて。おおきに。おおきに」
「あの、私、実は勝手にちょっとレシピ変えたりしてます。ごめんなさい」
「かまへん、かまへん。あんたの方が今ふうで、そら美味しいに決まってるがな」
「でも、これはこのまま焼いてます」
純子は焼き立てのパウンドケーキを指差した。
「これは私がケーキ屋さんになりたいと思った味やから」
「おおきに、おおきに。食べたいんやけど、味がな。なんかわからんようになってもて」
店主は涙ぐんで、鼻を啜った。
純子は、ふと思いついて、お守りのように持っていた、すみれの花の砂糖漬けを取り出した。
「これ、ダメですかね、ひと口、食べてみてもらえませんか。私の師匠にもらったものなんです」
店主は少し震える手のひらを差し出した。そこへ、純子はセロハンの袋から、3〜4粒出してのせた。
手のひらから、店主は一粒つまんで、口に入れた。
「あ、甘い」
「ええっ。お父ちゃん、わかった?わかったんや」
店主の妻は驚いて、夫を揺すった。
「うん、甘い。ほんで口の中で花が咲きよる」
純子はやっぱり、このすみれの砂糖漬けには魔法があって、お守りなんだと思った。
作者プロフィール
森 綾 Aya mori
https://moriaya.jimdo.com/
大阪府生まれ。神戸女学院大学卒業。
スポニチ大阪文化部記者、FM802編成部を経てライターに。
92年以来、音楽誌、女性誌、新聞、ウエブなど幅広く著述、著名人のべ2000人以上のインタビュー歴をもつ。
著書などはこちら。
挿絵プロフィール
mio.matsumoto
https://www.miomatsumoto.com/
英国ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)修士課程修了。
ロンドンでキャリアをスタートし、現在は東京を拠点に活動。
スタイリッシュでシンプルな表現を特徴とし、ファッションや広告、プロダクトなど多様な分野でビジュアル表現を手がける。
文学作品の装丁や挿絵も多く、谷崎潤一郎『鍵』、俵万智『サラダ記念日』、村上春樹『アフターダーク』海外版装丁などを担当。
英国出版社より著書『My Diary』を刊行。