
都内でもかなり静かな住宅地に、及川結花は生まれ育った。
実家は戦後に建てられた古い一軒家で、結花が嫁いでからリフォームをかけた。
生まれ変わったようなリビングの白い天井を見上げながら、結花はため息とも驚きともつかない小さな声をあげた。
「はあ。…直せばきれいになるものなのね」
手の中のマグカップが温かい。紅茶はマリアージュフレールのマルコポーロだろう。チョコレートのようないい香りがする。来客用に母親はいつもこれを買っているのだった。でも、家を出た娘のマグカップを捨てずにいる。
「結花のところは、マンションだからあったかいんでしょう」
「まあね」
当たり障りのない会話だった。結婚して3年になる。「そろそろ子どもがいても」などと、母親は言わなかった。まったく言わない言葉が見えない大きな袋にむくむく溜まっていっているような気が結花にはしていた。
思い切って自分から言ってみた。
「まったくその気がないのよね。克人には」
「え」
「だからさ、子どもが欲しいというのがないのよ、あの人」
「…へーえ」
母親は察しがついていたという顔だった。
子どもができないことは、女性側の理由だけではない。男性側の理由もある。半々である。
「あなたの家のそばに、有名な先生がいるでしょう」
「え、そうなの」
「李先生。昔ね、有名な夫婦生活の本を書いた先生でね。大ベストセラーになったのよ」
「なんでそんなこと知ってるの」
「世の中の人はみんな知ってたわよ。もう90歳くらいだと思うけど」
「その人、生きてるの」
「わかんない」
そう言ってから、母親はいたずらっ子のような顔をちょっと結花の方へ突き出した。
「その先生がまだ病院にいらっしゃるときに、あなたを取り上げてくれたのよ」
「ほんとにー」
テーブルの上のスマホを触りながら、母親は見えないあの袋の口をふっと開けるように言った。
「行ってみたら」
幸はその言葉を遮るようにマグカップで顔を隠した。