その晩、結花は夫の克人と過去最大のけんかをした。
結花が克人に李先生のところへ一緒に行こうと言ったことが、火種になった。
「オレのせいじゃないよ」
「だってこの頃ちっとも」
「最初の頃はあったけど、できなかったじゃないか」
「できないようにしてたんじゃないの」
「…とにかく、オレは行かないから」
結花は考えたが、1週間後、一人で李クリニックを訪ねることにした。
意外にも歩いて2〜3分の場所に、そこはあった。近隣をいつも歩いているはずなのに、まったく気づかなかった。それもそのはず、そこは大きな木々に囲まれた、古い邸宅だったのである。
まるで子どもの頃に読んだ『秘密の花園』のコリンの家のように。
おそらく、結花の実家よりも古そうな門を開けると、東側にだけ蔦が張った白い壁の洋館がそびえていた。
表札くらいの大きさの看板に「李クリニック」と書いてはあったが、反対側の扉には、本物の朽ちた表札もあった。
重い木の扉を開けると、大理石の敷かれたロビーがあり、深緑のびろうどを張ったソファーがあって、待合室になっていた。正面には小窓のついたカウンターがあり、そこが開くと、茶髪で化粧の濃い若い看護師が顔を出した。
「電話した及川です」
「しばらくお待ちください」
結花はカチカチカチという大きな柱時計が刻む音を聴きながら、ソファに座っていた。
静か、は怖いときがある。
「どうぞお入りください」
広い診察室には、昔のアラジンのストーブの上に、銅のやかんが載っていた。
ちんちんと、湯気が上がっている。
その奥には庭があった。
庭を背に、絵のように静止した老医が座っていた。
「先生、及川さんです」
老医は微動だにしなかった。頭は薄い髪が真っ白で、眉も真っ白だった。痩せた顔の鉤鼻に、丸い金縁のメガネがのっていた。
さっきの看護師が現れた。派手なネイルをしていて、どう見ても20歳そこそこだった。
「内診台へお願いします。ご準備ができましたらお声がけください」
老医がそこへ入ってきたことも、何をしたのかも一瞬のことだった。
風が吹いただけのようだった。