昭和30〜40年代生まれの私たちは、子どもの頃に明治の人たちのことを遠い昔の人のように思った。その感覚を、平成に生まれた人たちは私たちにもっているのかもしれない。そんなことを思うようになった。
おそらく、平成の彼ら彼女らには知らないものを私たちは経てきた。
たとえば、ものを書くというスタイルひとつとっても、今やパソコンが当たり前。しかし、私がものを書く仕事をし始めた昭和61年…1986年ごろは、まだ原稿用紙に直筆が当たり前だった。
初めてスポーツニッポン新聞文化部から仕事をもらったのは、まだ在学中だった。我が大学の助教授をコラムニストとして紹介したお礼にと「女友達と温泉へ行ってこい」と言われた。そのレポートを書くという仕事だった。
それが面白かったと褒められ、いよいよ今度は週一回の連載コラムをもらった。無署名の「ヤング情報」というコラムだった。若者の間で流行っていることを一つ取り上げ、毎週書く。ネタ探しは結構大変だったが、自分の文章が活字になる嬉しさは例えようもなかった。
活字。そう、当時の新聞はまだ、人間が一文字一文字鉄でできたハンコのような文字を積み上げてインクをつけて印刷する活版印刷だったのである。
「原稿はファックスで送ればいいよ」と言われていたが、私の原稿は大体5〜6枚。家のファックスは1枚ずつ流し込まねばならず、時々は半分読めなかったりする。それで私はほぼ編集部に届けに行っていた。
当時のスポニチ大阪本社は福島のホテルプラザの近くにあった。編集部や営業、総務のある地上3階と、活版印刷工場のある地下に2階。
エレベーターなどはなく、記者たちが駆け上がったり駆け降りたりする階段は、擦り切れて少し斜めになっていた。
下からはインクと機械油の匂い、そしてゆっくり昇っていくと、煙草の匂いが漂ってくる。
編集部の入り口に立つと、右手前に報道部(運動部)、そのさきに局長の局次長席、その向こうにレース部。左手前は校閲、整理、一番左奥に文化部があった。
100人以上がひしめくその大フロアは文化部あたりが紫煙で霞んでいた。
真ん中の通路を歩き、ほぼ全員の見て見ぬ視線を受けながら、文化部までたどり着く。
恭しくデスクに原稿を差し出す。最初の頃は赤ペンでこれはこう、ここはいらないと直されたが、だんだん赤が少なくなっていった。
「ごくろうさん」
そう言われて、お辞儀して入稿終了である。
16時半から17時ごろに文化部へ行くと、記者たちが戻ってきて原稿用紙にペンを走らせていた。
ペン先がプラスチックのサインペンみたいなペン。途中でしくじっては丸めてゴミ箱へ。しかしベテラン記者はほとんど間違えることなく書いていた。左手の指に煙草を挟みながら。
やがて大学を卒業して半年経った10月から、私はそこで準社員として働くことになったのだが。