神戸女学院大学アメリカ民謡クラブの部室は、スタジオがふたつと、入り口のあたりに待合室のような小さいスペースがあった。
当時は煙草を吸う先輩方も何人かいた。
ひとつ年上の先輩のミィさんがある日、私に言った。うちのバンドが解散するしないと言っていた頃だった。
「あややはしゃべりの仕事をした方がいいと思う」。
それは「音楽よりしゃべりの方がマシ」と言われているようでもあった。すでに1年生の終わり頃から、私はコンサートの司会を頼まれることが多かった。
「これこれ、受かったらさ、アメリカ西海岸旅行よ」
ええっ、と目を見開き、私はそのチラシを見た。
まだ海外に出たことのなかった大学2年生の私には、夢のような話だった。
チラシには、南海線・堺東の高島屋にできるという、ミニFM局「UPル」のDJ募集という見出しが踊っていた。
そこは今の東京に例えるならば、二子玉川の高島屋のような規模で、専門店街とデパートがつながっている都市近郊型のショッピングセンターだった。
ミニFMの電波が届く範囲は1km。
サテライトスタジオのイメージイラストが描いてあり、なかなか本格的である。
「受けてみます!」
先輩たちはがんばれがんばれと背中を押した。
しかしそんなに英語の発音が良いとは言えない私には勝算などなかった。
チャンスの前髪を掴め、という言葉もまだ知らなかった。
けれども、まず手を挙げなければ、神様だって気が付かない。
私はすぐに写真と履歴書を送った。書類選考で最終審査の50人ほどが選ばれることになっていた。
最終審査は、難波の高島屋にある大きなホールで行われた。最初に2〜3分の自己アピールをするのだという。
確かそこから20人になり、最後に7人が選ばれたと思う。
一番驚いたのは、その日の5人ほどの審査員のうち、審査委員長に元毎日放送のアナウンサーで、佐藤良子さんがいたことだった。
私は小学生の頃から彼女が谷村新司さん、ばんばひろふみさんと登場した深夜放送『ヤングタウン』を聴いていた。当時の通称「ヤンタン」は、最高聴取率が20%台というおばけ番組だった。
その3人のヤンタンの翌日の学校では、その話についていけないと仲間に入れないほどだった。
「わあ、良子さんや」
私は当時まだ30歳なのに、ルックスや髪型が完全にオトナな良子さんに感動した。綺麗な声の印象そのままだった。それですっかり満足してしまった。
私は最終の20人にまでは残った。良子さんが私に質問してくれた。
何を聴かれたか憶えていないが、こう言ったのは憶えている。
「今日は憧れの良子さんにお会いできただけで、本当に来てよかったと思います」
選ばれた7人は、帰国子女の子や、芝居を勉強している子などだった。私はオーディションに落ちたのに、ウキウキして帰った。
良子さんに会えた。良子さんに会えた。
手を挙げてよかった、と思った。