それから1週間ほどした頃のことだった。
家の電話が鳴った。私が出ると、端正な低い女性の声で「オフィス・ミックと申しますが、綾さんはおられますか」と言った。私です、と答えると「佐藤良子が立ち上げたタレント事務所で、私はマネージャーのKと言います。佐藤に代わります」
「佐藤です」
紛れもなく、良子さんの声だった。彼女は10年間、放送局の局アナをしていたが、独立して女性ばかりを集めたタレント事務所を作ろうと思ったこと。なんでも、週一回、アナウンスのレッスンを直々に指導してくださること。レッスン料は月に6,000円。ただある程度喋れるようになれば、司会なども仕事もある。きちんと喋れるようになれば、もしもそういう喋りの職種につかなかったとしても、きっと社会で役に立つ。… そんな内容だった。
私は一も二もなく「伺います」と言っていた。
事務所はミナミのアメリカ村のど真ん中にあった。てっぺんに自由の女神が立っているワンルームマンションの一室だった。
階段を上がって2階からエレベーターに乗る。
なんだかちょっと怪しい入居者もいそうだった。
扉を開けると白い大きなテーブルがあり、奥に事務机が一つ。反対側に小さなキッチンとユニットのバス&トイレがあった。
「初めまして。ようこそ」
マネージャーのKさんは当時25歳くらい。この人も大人びていて、しっかりしていた。私は良子さんとKさんの2人を見て、なんだかすっかり安心していた。
レッスンは、私1人のこともあれば、他のタレント候補がいることもあった。年齢はまちまちで、みんな自分より美人に見えた。
良子さんはアナウンスだけでなく、メイクの仕方や、ファッションや、安くて美味しい大阪のグルメも教えてくれた。
メイクひとつとっても、すべてが新しい世界だった。資生堂インウイのスティックファンデーションを濃淡2色使うこと。眉は濃くしっかり書く。アイラインは目の上下に引く。メイベリンのダイヤルマスカラは2度つけしてしっかりまつげを強調する。
そして彼女はいつも6センチ以上のヒールを履き、姿勢良く歩くことを率先していた。
「とにかく、いったん飾れるだけ飾って、そこから引いていけばいいの」
そう言っていた。男性に受けるファッション、色使い。そんな今まで考えても見なかったことが、毎回彼女から降ってきた。
私はひっつき虫のように、彼女がついてきていいと言うところへはついていった。
いわゆる鞄持ち状態だった。
いつも堂々と仕事のできる男性たちと渡り合い、楽しく会話し、長いウエーブヘアをかきあげて微笑む。
そんな良子さんはいつもいい香りをまとっていた。
フローラルな中に、少しクセのある、強さや刺激を秘めた香り。
「これはなんの香水ですか」
「ニナ・リッチのL’air du tempsよ」
デパートの売り場へ行って、その香水を見て見ると、すごい値段だった。鳩の止まっているガラスのボトルは、なにか20歳の私には触ってはいけないもののような気がした。