《1》
山あいの緑は、昨日の雨粒をまだ残して、きらきらと輝いている。
前に走り出したと思った電車が、停車すると、今度は逆戻りし始めた。
「あらあら。どうしたのかしら」
絵津子が荷物に手を置いたまま首をひねって窓の外を伺う。宏之もゆっくりその景色を追って、言った。
「スィッチバックと言ってね。急斜面だから、行きつ戻りつしながら上がっていくんだよ」
箱根登山鉄道について、インターネットで調べに調べてきた宏之は、これを楽しみにしていたのだが、あえて平然とした顔をした。
「へーえ。そうなの。すごいわねえ」
そう言いながら、絵津子はまだ窓の外を見ている。その横顔を、宏之はふっと見入った。
束ねた髪の、こめかみの白髪。黒目がちの目尻に刻まれたしわ。それはそうだろう、ふたりは同い年の60歳だ。大学を卒業して2年ほどで結婚したから、今年で35年、一緒にいることになる。
そしてそんな妻の口元を見て、呆れたように言った。
「なんだ、人を食ってきたような口だな」
「…」
まあ、とも、ひどい、とも言わず、絵津子は唇を上下に合わせて宏之を軽くにらんだ。
昨日、久しぶりの夫との旅行に、久しぶりに買った新しい口紅だった。
「また赤がトレンドなんですよ」と、たまプラーザのデパートの美容部員が勧めるままに買った、朱がかった赤の口紅は、いつも化粧っ気のない絵津子には確かに少し浮いていた。
「…だって」
久しぶりにきれいに見せたいと思った自分を、絵津子は少し後悔した。聞こえないようなため息をつくと、それでも心の底にまだわくわくした気持ちがあることに気づいた。
宏之は何度か目のスィッチバックに楽しげに体を揺らしていた。