《1》
「Are you sleepy? 」
少しだけブラッド・ピットに似ている英会話教師が山岡葉奈の顔を覗き込んだ。
本物のブラピ以外は似ていたって「ブラピくずれ」に過ぎない。でも葉奈は「ここでは似ていないよりマシだ」と、ぼんやり思った。
「No…」
葉奈は「眠そうな顔でごめんなさい」と英語で言おうとしたが、訳するのもバカバカしくなってやめた。
葉奈の眠そうな顔には理由があった。
もはや職場の人間は誰もそれを突っ込まないが。
SEのコンサルタント会社にいる彼女は、ここ1年、平日は夜の11時からアメリカの金融会社とのテレビ会議に出ている。会議は早くて深夜3時、遅ければ5時まで続く。英語が得意で現地で働いていたことがあるという理由で、このプロジェクトは32歳の彼女がサブリーダーだ。
日の出を見て帰り、少し仮眠すると、午前中11時からのビジネス英会話レッスンに行き、午後からはまた書類を作ったり、企画会議をしたりの業務だ。
会議が煮詰まると葉奈はよくPC に落書きをする。
「ALIVE! ALIVE! ALIVE!」と、呪文のように。
この仕事が始まって、葉奈は4年付き合っていた恋人と別れた。付き合って1年経った頃は彼氏と結婚したくてたまらなかったのに、自分が忙しくなってしまってからの彼氏のことはどんどん好きになれなくなっていった。彼氏は彼女の忙しさを理解しようとしないどころか、棘のある言葉を吐くようになった。
「なんのために忙しいわけ」「サブリーダーっていうかさ、通訳雇えばいいんじゃないの」「葉奈がどんどん女じゃなくなっていく」…。
その言葉のひとつひとつを思い出すこと自体が、葉奈のストレスになった。
彼氏と別れてみると、むしろ淡々と仕事に打ち込めた。
正月も実家のある三重には帰らなかった。無理をすれば帰れなくもなかったが、 実家のゆったりしたリズムで数日生活をするだけで、また東京に戻ってフルに働くリズムに戻れるのかと思えた。
それにアメリカの企業は元旦しか休まない。2日からは通常営業だった。
母親から電話が入ったのは3日の朝の、英会話前だった。
「あけましておめでとう。…うん、元気やよ。今から英語のレッスンなんやわ」
急いだ口調の葉奈の耳に、おっとりした母親の声がその用件を告げた。
「土曜日の昼間にな、大学の同窓会があって、お父さんがそっちへ行くって。それで、夜ご飯をな、あんたと食べようかと言ってるんやわ。同窓会なんか行ったためしがないで、お父さん、あんたの顔が見たいのが目的やないかな」
「…」
「『あいつは働きすぎる』って。心配しとるんよ」
「私は大丈夫やがに。… まあでも、会うとこうかな」
葉奈はしぶしぶ承知した。32歳で結婚せずに仕事ばかりしているのは、田舎に暮らす父親にはわけがわからないことなのだろう。でも、今の自分はそんなに悪くない。それを父親にどうやってわからせることができるだろうか。