チェリストとしてジャンルを超えて世界で活躍する溝口肇さんは、今年でデビュー30周年。
旅番組『世界の車窓から』のテーマ曲は溝口さんの作曲した曲として有名ですが、こちらも来年30周年を迎えるそう。
旅をするような生き方と、香りへの思い。
漂うようなチェロの音色を思わせる言葉が並びます。
人がなぜその楽器を選ぶのかは、半ば運命なのかもしれません。
溝口肇さんは3歳からピアノを習い、11歳のときにチェロの先生についたのだそうです。
「私の母親はタンゴが大好きでした。楽器をやっていたわけではありませんが、その世界では知り合いが多かったようです。それで、ピアノもその関係の先生に習わせました。彼女は僕をプロの音楽家にしたかったらしく、何かオーケストラで弾けるような楽器をと思ったようです。たまたまチェロの先生が近所にいらしたので、チェロを習うことになりました。バイオリンはやっぱり3歳からやらないと、ものにならないと。チェロも3歳から始めるに越したことはないけれど、体格があったので、チェロならいけるかも、という話になりました」。
子どもをプロの音楽家にしたいと思うというのは、溝口さんによほど素養を感じられたのでしょう。
「幼い僕が一心にカラヤンを聞いているのを見て『この子は何か違う』と思った、と言うのですが、さて。確かに子どもの頃からクラシックは聴いていたようです。全般に聴く、というよりは、ベートーベンの『田園』ばかりとか、ハイフェッツのバイオリンコンチェルトが好きでそればかり聴く、というこだわった聴き方をしましたね。 物心がついた頃からはロック、ポップスも全般によく聴きました。それら全部が今、作曲、演奏をする自分の音楽の原点であるような気がしています」。
これまで作曲された曲はカウントすることが不可能なほど。「2000〜3000曲はあるかもしれません」と、ポーカーフェイスです。
「今年デビュー30周年です。おおげさなことは何もせずに終わってしまいますけれど。春には30周年コンサートを開催しました。30年の仕事のなかで特に記憶に残っているのは、海外でのレコーディングです。 一番多かったのはフランスとイタリア。それから複数回行っているアメリカ、チェコ、ポーランド、イギリス、イスラエル。それぞれに違いますね。チェコとポーランド、イスラエルはオーケストラで、特に僕はポーランド・ワルシャワのオーケストラの音が好きです」
海外での仕事は、初めて演奏するミュージシャンも多いはずですし、予期せぬ出来事もありそう。そこでひとつずつ作品を完成させていくために心がけることは「コーディネート」だと思います。
「どんな仕事もそうだと思いますが、仕事が始まる前の準備がすべてだと思います。コーディネーションがすべて、と言い換えてもいいでしょう。それがうまくいけば80%うまくいきます。私の音楽に合う、そしてそれ以上を与えてくれる素晴らしいミュージシャンを見つけられたら、感動を創造することが出来ます。どこの国でもそうなのですが、ミュージシャンを探すときはその人の音楽とどうコミュニケーションを取れるかを、とても気をつけます。やはり国、ではなく人、なのでしょう」
プライベートでの旅で、大好きなのはイタリアだそう。
「イタリアは仕事も含め10数回行っています。先日はプライベートで5度目のヴェネツィアを訪れました。多摩川の近くで生まれているからか、僕は水辺が好きです。ヴェネツィアは車、オートバイや自転車がなく、歩くしかない。主な交通手段は水上バス、水上タクシー、渡し船、そして観光客用のゴンドラ。街全体の時間がゆっくり流れているようで、心身共に落ち着く自分を感じました」
旅先ではあえて予定は組まず、朝起きて「さて今日はどうしようか」と思いつくのが、溝口さんの流儀。
「ヴェネツィアン・グラスで有名なムラーノ島、レース編みで有名なブラーノ島へも行きました。ブラーノまでは水上バスで片道45分ほどですが、ヴェネツィア湾での静かな運行は、涙が出るほど気持ち良い時間でした。船の一番後ろに12席ほどの特等席があって、風も入らずぼーっと船のスクリューが作る引き波を眺めていられます。その至福の時間はなにものにも代え難い素晴らしいもので、旅の一番の思い出となっています。
引き波を見ながらヴィスコンティの作品『ベニスに死す』という、マーラーを主人公にした映画を思い出していました。映画の冒頭の船の映像、そしてマーラーのアダージョという曲が、静かに頭の中を流れていました」。
街中でも、素敵な場面に遭遇しました。
「フェニーチェ劇場というところがあって、ヴェネチアには何度も行っていますが、僕がいくときは必ずオペラはやっていない(笑)。この間もあと10日間でオペラシーズンが始まると言われて、やはり運がないのかな、と。そこで、パリのオペラ座でもやっているようなバックステージツアーで入りました。フェニーチェ劇場はまばゆいほどの金の装飾が本当に美しいです。音楽とはこのような場所で奏でられるもの、と言うことを演奏する人も聴く人も知っていたのでしょう。素晴らしすぎてここでも涙が出そうでした。
ステージでは偶然にオペラの新作ゲネプロをやっていましたが、美術の斬新さ、歌手の素晴らしさ等々に圧倒されました。オペラを観ることは出来ませんでしたが、ある意味それ以上に素晴らしい体験が出来たかなと思っています」。