中国・黒竜江省に生まれ、来日して29年。中国に古来から伝わる楽器、二胡を世界に広めつつ、自らの作曲活動、演奏活動を積極的に進めるジャー・パンファンさん。二胡という楽器の魅力から音楽への想いまで、日本語で丁寧に語っていただきました。
ジャーさんの二胡の音は、深く優しく、ある時は力強く、どんな国の人の胸にも様々な色合いで響いていくようです。
ジャー・パンファンさんが二胡を弾くようになったのは、8歳のとき。
「たまたま兄が二胡を弾いていたので、私も手にとるようになりました。クラスメイトにも二胡を弾く人がいました。当時の中国ではギターやバイオリンは少なかったし、身近にあるので一番入りやすい楽器でした。練習は好きでした。小学生の頃からプロになろうと思っていましたので、毎日2時間以上は弾いていたし、中学に入ったときは4時間以上弾きました」
恵まれた才能があったのでしょう、と問いかけるとジャーさんは首を振りました。
「本当に音楽的才能があれば歌っていたと思いますよ。人の声は最高の楽器。自分の感情を直接表現することができます。私は弦の響きをもって表現することしかできませんから。でも、コツコツやるタイプではありました。才能はありませんが、努力をすることはできました」
謙虚な気持ちで努力してきたジャーさんの道はどんどん開かれていきます。
「北京の中央民族楽団に入団し演奏家として活躍しながら、30歳のとき日本に来ました。東京藝術大学の修士課程で3年学びました」
ジャーさんは、日本に来たとき、すでに二胡のプロフェッショナルだったのです。二胡を嫌になったことはなかったのでしょうか。
「嫌になったこともありますよ。でも、面白い楽器ですから。音域的にも深みがあって聴きやすく、寂しげだけど、奏者の癖、演奏の特徴が現れやすい。面白い楽器だと思います」。
1988年から、日本で生活し始めたジャーさん。こちらへ来てよかったと思うことは多々あります。
「当時は鄧小平の改革開放政策で、中国から海外に出やすくなったところでした。私は日本で音楽ができてよかったと思っています。日本の音楽家、エンジニアとの制作はとてもレベルが高くて素晴らしい。日本でCDを出したからこそ、またそれが中国で受けているという事実もあります」
最近では、アメリカのバレエ団にジャーさんのオリジナル曲が使われました。
「『睡蓮』など、私の曲を3曲使ってくれています。嬉しいですね」
ジャーさんは、作曲も二胡で行います。
「ピアノなどは使わないですね。二胡には独特の音質があるからです。ピアノの場合、タッチによって音色が変わりますが、二胡は弦が浮いたままなので微妙によれます。そのことで生まれるビブラートも表現の大事な要素になるのです」
アルバムも毎年出していますが、ヤマハから教本、曲集のシリーズも。
「発信し続けることが大事だと思っています」
日本各地で二胡の教室も主宰されていて、東京の教室だけでも200人以上お弟子さんがいます。
「わりとすぐに弾けるようになるのです。やってみますか」
僭越ながら、弾かせていただきました。ほとんど弓を持つ手に力はいりません。 やさしくふわりともって撫でるように弓を弾くと、意外に大きな音が出て驚きました。力を入れると逆にギコギコと変な音になります。
一般的に二胡の値段は数万円から数十万円のものまでいろいろあるようですが、教室ではレンタルもあります。