14世紀頃演奏されていたというクラヴィコードは、ピアノの原型とも言える楽器。世界を見渡しても数少ないこの珍しい楽器を自作して演奏しているのが内田輝さんです。もともとは大学でジャズ・サックスを学んでいた内田さんが、どのようにしてクラヴィコードに行き着いたのか。そこにはまっすぐに自らの生き方と音楽を重ねる内田さんの姿があります。
見るからに繊細そうな透き通った気配。インタビューのため、品川駅で待ち合わせた内田輝さんは、楽器を持っていなくても音楽をやっているのではと想像できそうな人でした。
洗足学園音楽大学ではジャズ科を専攻、主にサックスを吹いていたそう。
「最初にサックスを手に取ったのは、姉が吹奏楽をやっていて、使わないサックスが家にあったからでした。僕はそれまで野球をやっていたのですが、高1の時、学校を辞めてしまったんです」
まず聞き捨てならない人生の始まりが。さて、野球少年だった内田さんが、なぜ学校を辞めたのでしょう。
「まず野球部を辞めたんです。そうしたら仲間の輪から外れて、悶々と学校へ行って家に帰って来る空虚な日々が始まりました。親友と呼べるような友達もいないし、だんだん、学校へ行く意味がわからなくなってしまったんです。時間を浪費しているように思えて」
とりあえず、6歳上のお姉さまを頼ってアメリカへ。1ヶ月くらい、何もせずに過ごしたある日、内田さんはジャズと出会います。
「シアトルのカフェの片隅で、ジャズを弾いていた人がいたんです。キーボードでした。ああ、かっこいいな、と思いました。ジャズをやってみたい。やるなら音大に行きたい。それで、姉のサックスを手にしたわけでした。勉強の方も、大検(大学入学資格検定)をとって、音大の教授に演奏技術、音楽理論を習いました」
思い立ってから1年半ほどで、音大受験。それに合格してしまったのだからすごい。
「ちょうどジャズ科が短大から4年生になったところだったんです。洗足は柔軟な学風で、何かが生まれそうな場所だと思いました。クラシックだけの音大とは違って、いろんな先生にも出会えましたね」
内田さんのサックスの先生は、中村誠一さんというジャズ界の巨匠。しかし、当時のジャズメンたちの雰囲気は、内田さんには合っていなかったようです。
「超体育会系だなあと。僕は煙草を吸わないし、酒もそんなに飲まない。『お前はなんでそんなにクリーンなんだよ』と言われて。だんだん、そういう人付き合いがストレスになって、左手が動かなくなってしまったんです」。