メロディ・メーカーであり、シンガー。そしてクレイジーケンバンドのリーダー。ラジオでの喋りも愉快。横山剣さんは、それらすべてがビジネスというより、生き方だと思える人。ホームグラウンドの横浜で、自らの音楽のルーツとこれからについて、語っていただきました。
横浜に生まれ、東京に住んだこともありつつ、ほぼ横浜のなかを転々としてきたという横山剣さん。舶来文化が入ってくる土地柄もあり、10代の頃から多国籍な音楽を聴いて育ちました。
「子供の頃からラジオやテレビで音楽が耳に自然と入ってきましたね。内外のポップ・ミュージックと同時に、祖父が聴いていたNHK-FMの民謡の番組も好きだったな。特に歌のこぶしにグッと来て、後に出会うソウルミュージックと共通するものを感じましたが、鈴木雅之さんも、さかいゆうさんも、自身のこぶしについて民謡からの影響があったと言及していて驚きました」
1945年から放送されていた在日米軍向けラジオ放送、FENも、音楽の情報源の一つでした。
「ソウルもあれば、ロックンロールもある。曲名やグループ名など、わからない時は録音したものを英語の得意ないとこに聞いてもらったりして」
そのうち、感度の良いラジオを買ってもらい、エアチェックまで。
「小学校高学年の頃かな。スカイセンサー5800というラジオを買いました。高感度なラジオなので海外の放送が入ってくるんですよ。深夜にコリアン系の音楽やロシアの番組をエアチェックして。ロシアの放送局にエアメイルを送ったら、ベリカードが送り返されてきたりしました」
ベリカードとは「放送が聞こえましたよ」という報告をするともらえた「受信通知書」。当時は世界中の放送局が、どこの範囲まで遠く電波が飛んでいるかということを、リスナーからの報告によって知っていたのです。
インターネットがない時代でも、感受性豊かな横山少年は、こうしてさまざまな国の音楽に触れていたようです。レコードも重要な情報源であり、大切な音楽ツールでした。
「横浜中華街に『發三電機商会』という店があったんです。台湾、韓国、フィリピン、シンガポール、タイといったアジアの国の音が大音響で流れていてね(笑)。高かったけど、どうしてもほしいレコードは買っていましたよ。1970年代から、ユン・スイル、シン・ジュンヒョン、イ・ソンエ、チョー・ヨンピル等の韓国歌謡を聴いていました。また欧陽菲菲、テレサ・テン等の台湾ポップスもここで買いました」
音楽を聴き始めた頃から、横山さんには音楽を選ぶ基準がありました。
「ジャンルより、グッと来るか来ないか、なんだよね」
それは日本の音楽を聴くときももちろん同じでした。なかでもグッときたのは、昨年亡くなった筒美京平さんの楽曲。
「初めて自分で買ったレコードが『ブルーライトヨコハマ』だった。リズムも変わっていて、いい曲だなあと。グループサウンズで人気だったオックスの『ダンシング・セブンティーン』も、麻丘めぐみの『悲しみよこんにちは』も平山美紀(当時)の『真夏の出来事』も、「いいな」って思ったら筒美京平さんの曲だった。リズムもコードも新しい。すごいなと思います。赤い風船の『翼をください』等の名曲を残した村井邦彦さん、ピンキーとキラーズの『恋の季節』を作曲したいずみたくさんのボッサノヴァ・テイストもシビレる!」
ジャズに使われるテンション・コードのお洒落さ。演歌的なこぶしを回す歌い方。並べてみると異質に見えるものが、横山さんのなかでは「グッとくる」心の芯で融合していったのでしょう。
「そうですね。ラジオから流れてくる曲の伴奏に合わせて勝手に自作のメロディをつけてみる、なんてことも子どもの頃からしていましたね」
初めて曲を作ったのは小学生の頃だそう。