「ナハ、ナハ、ナハ」のギャグで、一世を風靡。元祖・いじられキャラで昭和のメディアの人気者となったせんだみつおさん。俳優としても数々の名作に登場しています。また最近はフリーアナウンサーの生島ヒロシさんと漫才コンビを組んで演芸場をわかせたり、漫才にも意欲をもっています。芸能界に入った経緯から、今に至るまで、その人生には楽しいエピソードが満載です。
70代に差し掛かって、その風貌は変わらず味があるせんだみつおさん。いや、間近で見ると、2の線もいけるのではと思えるダンディな顔立ちです。Wikipediaには「サハリン生まれ」とありますが、その真偽のほどから確かめてみました。
「僕は日本の領土だった時代のサハリンで昭和22年に生まれました。父は王子製紙の社員で、現地に20年いたんです。昭和20年が終戦で、ロシア軍が侵攻してきたのが21年。僕が22年に生まれて、23年には日本へ引きあげてきました。大人になってから父に『なんでそんな大変な時に僕を作ったの』と言ったら『今度戦争があったらまた兵隊が必要だから』なんて言ってました(笑)。父の写真をご覧になりますか。ipadに入ってますよ」
幼少のせんださんとご両親の写真を見せてもらいました。驚くほどハンサムですらりとした父上です。
「あるとき、両親が僕の育て方を巡って大喧嘩したことがありました。父が母にお前の教育が悪い、と。母は一生懸命育てたのに、とあまりの怒りに『この人は本当のお父さんじゃない』と言ったんです。僕がびっくりして『じゃ、本当のお父さんは?』と尋ねると『樺太犬よ』と(笑)。母はそういう時に状況を笑いに変えられるところがありました。面白い人でした」
その母上のDNAがせんださんの笑いの素なのかもしれません。
子どもの頃から、彼は芸能人になりたかったのだそうです。
「父の転勤に従って岩手、宮崎と移り住んで、小学2年の時に父親が栄転して上京したんです。
杉並の小学校へ通っていて、その頃から映画好きの母親に連れられて映画を見に行ったりしていました。小学校3年生の時、親戚のおにいちゃんと新宿の伊勢丹に行ったら、おにいちゃんが呼び止められて、僕のことを児童劇団の杉の子に入れませんか、と聞かれたようです。それを母に言ったら、母はすぐ隣の家に電話を借りに行って『この子は必ずスターになります』と言ったんですよ」
10歳のとき、劇団民藝の『人形の家』の舞台で、せんださんはデビューしました。
「主人公・ノラの長男の役です。轟夕起子さんが主演でした。青山に稽古場があって、荻窪からトコトコ通ったなあ。『主婦の友』の子どもモデルなんかもやりましたよ。でも子どもだと思って、モデルさんや女優さんと同じ部屋で着替えをさせていたら、じっと見てたみたいで、部屋を変えられました(笑)。母が『どこに出しても恥ずかしい子です』って言ってたな」。