戦後のベビーブームで生まれた、いわゆる団塊の世代のせんださん。区立中学から高校は私立へと進みましたが、ものすごい生徒数でした。
「1クラス60人で、11クラスあったんですよ。私立だからそのまま大学へ行けると思っていたら、僕の学年から人数が多すぎて上位6割しか大学に上がれないことになってしまったんです。
男子ばかりで女の子の話しかしてませんでしたからね。隣に美大があって、裸婦像のモデルの女性が髪をなびかせて通るんです。おねえちゃんがいるぞ、と僕が掛け声をかけると、みんな飢えた犬のように金網にむしゃぶりついて見ていたら、金網ごと倒れたこともありました」
その後、駒澤大学に入学したせんださんは、そこも2年で辞めてしまいます。
「その後、調理師免許を取ろうと服部栄養専門学校へ通い、取得しました。高校時代から友達だったビリーバンバンの菅原進たちと、浜口庫之助さんがやっていた歌謡学校へ行き始めたんです。4人でバンドをやってたんですが、レコードデビューの時に、兄弟の方が絵になるからと切られちゃった。それで『何とかしてくださいよ〜』と、運転手したり、芸能界にしがみついていたんです」
その後、せんださんは都内をラジオカーで走ってレポートしたり、ラジオの仕事をするようになりました。
「1974年から『燃えよせんみつ足かけ2日大進撃』という番組をもらってね。ある学生がコントを送ってきたんです。暗いやつでね、パシリにしていたら、それが秋元康だった。うちに遊びにきたとき、かみさんが『食べるにゃん? 美味しいにゃん?』とか猫語を使っていたら、そのうち『おニャン子クラブ』っていうのを作ってて。もってかれたねえ(笑)。去年、フジテレビであったときは『秋元先生、おかげさまで元気です』って僕から挨拶しちゃったよ。この世界だけはいまだに下剋上あるからね。たけしや所ジョージに追い抜かれるとも思わなかった。タケちゃんマンに『ナハ』もあげちゃったし『コマネチ』も3万円で売っちゃった。今や僕は跳び箱タレントだよ(笑)」
「ナハナハ」というギャグが生まれたのは、湯原昌幸さんとの会話がきっかけでした。
「ある日、湯原さんが『ナハ』ってやったんですよ。なにそれ、って言ったら『ウルトラマン、見てないの?飛び立つときにナハ、って言ってるよ』って。見たら確かに言ってる。円谷プロに電話したら、本当に言ってると。M78星雲から来ているからだと」
その大ヒットギャグはタケちゃんマンが口にしても「せんださんのギャグだ」とみんなが分かるくらい、存在感があったということでしょう。
1970年代『ぎんざNOW』、『金曜10時!噂のチャンネル』と、テレビで大ブレイクしたせんださんは、歌手の和田アキ子さん、湯原昌幸さん、プロレスラーのデストロイヤーさんらと超人気者になっていきました。『…噂のチャンネル』は、最高視聴率30%台を記録しています。
そもそも番組に呼ばれたのは、日本テレビのプロデューサー、笈田雅人さんとの意外な出会いから。
「ある夏に、赤坂プリンスホテルのプールで、当時大人気の山本リンダさんのショーの司会に呼ばれたんです。そこで僕はプレスリーの真似をしたり、盛り上げようといろいろやっちゃった。そうしたら『おまえのショーじゃないんだ』と事務所に怒られてね。とぼとぼと、赤坂見附の駅へと歩いていたら、後ろから、トントンと、肩を叩かれました。『日テレの者ですが』。それが笈田さんだったんです」
それは最低の気持ちで歩いていたときにやってきた、最高の出会いでした。
「それから僕は思うようになりました。誰かがどこかで絶対に見ている、と。一生懸命やっていないとダメですよ。どんなに底辺にいても、一生懸命やっていたら、誰かがどこかで絶対に見ている。それが僕の好きな言葉です」
ふと振り返るように、せんださんはこうおっしゃいました。
「今が一番いい。自分がどうなるか分からなくてつらかったなあ」。