2023年。伊東ゆかりさんは幼少期から歌い始めて70周年を、レコード・デビューから65周年を迎えます。それを記念して11月に発売された6枚組のアルバム『POPS QUEEN〜All Time Singles Collection』には『小指の想い出』のような大ヒット曲のみならず、ジャズ、ポップス、カンツォーネとさまざまなジャンルの歌をみんなにわかるように歌い続けてきた伊東さんの素晴らしい歴史が詰まっています。語り尽くすには余りある歌手人生のいくつかの場面について、印象的なエピソードを話してくださいました。
低く深く、淡々とした歌声ながら、艶っぽさや情をそこはかとなく漂わせて。美しさも実力も兼ね備えた歌手として人気を得てきた伊東ゆかりさん。幼少期、その才能を見抜いたのは、父親の謙吉さんだったようです。
「終戦後、父はジャズのベース奏者として、進駐軍クラブなどで演奏していたんですね。子どもの頃の私は部屋の隅っこにいるのが好きで、人と話すのも得意じゃない。笑わない子だったの。それで、人前で歌でもうたわせたら性格が明るくなるんじゃないかと思ったらしくて、最初は自分のバンドのリハーサルで歌わせたんです」
当時の進駐軍キャンプのステージといえば、日本人のジャズミュージシャンやエンターテイナーが修練を積む場所でもありました。すでに活躍していた少女歌手には江利チエミさんや雪村いづみさんもいたのです。
伊東さんが初めてステージに上がった頃は、朝鮮戦争の真っ最中。在日米軍の兵士たちは、一時、日本に駐留してから朝鮮半島へ出征していました。出征前の不安の時間。そして本国に我が子を残してきた人たちも多かったのです。
「だから、とりあえず、子どもが出てきただけでウケますよ。ただ、気に食わないと『ウーッ』って言うし、いいなと思うと『ワーッ』と歓声をあげます。私は『ウーッ』と言われたことはなかったかな。ただ突っ立ったまま、笑いもせずにうたっていたから、NO SMILEとは言われたけれど」
彼女の歌声に、感極まって泣き出す人もいたようです。
「歌い終わると、兵隊さんがチョコレートやアイスクリーム、ハンバーガーといった、巷にはない美味しいものをくれるのが楽しみで。『今日は終わったら何をもらえるかな』と思いながら歌っていました。ひたすら英語の歌詞を覚えて。週に1度、発音を直しに日本の学生がきていました。父は、私の耳が英語に慣れるように、日本のラジオを聴かせてくれなかったわね。FEN(米軍極東放送)ばかり。NHKの『一丁目一番地』や『ヤン坊ニン坊トン坊』といったラジオドラマが聴きたかったんだけどね」
その歌唱力は評判を呼び、楽しみとしては聴けなかったラジオドラマ(文化放送)に、7歳の頃には自ら出演し、主題歌も歌っていました。その後ものど自慢で優勝したり、ジャズフェスティバルに登場したりと引っ張りだこになっていきました。
「でもね、人とコミュニケーションを取るのが苦手な性格は治らなかったみたい(笑)」
そう言って、伊東さんはちょっとシニカルな笑みを浮かべました。