そして伊東ゆかりさんは1958年、まだ小学5年生のとき、キングレコードからデビューしました。デビュー曲は『クワイ河マーチ』。その前年に公開された英米合作映画『戦場にかける橋』の主題曲のカバーでした。その後、1960年代前半までは海外ポップスの日本語カバーを歌い続けています。日本の音楽業界もジャズからロカビリーへの移行期。またテレビや映画に出演しながら人気を得ていくという時代も始まっていました。
伊東さんは渡辺プロに所属し、1962年から伊東ゆかり、中尾ミエ、園まりの3人娘として『ザ・ヒットパレード』や『シャボン玉ホリデー』といったテレビの人気番組に出演してさらに人気者になっていったのです。
「仲良く地方公演も3人で行ったりしていましたね。『片想い』なんていう歌は、私が歌いたい、ってとりあいっこしたりね(笑)。だって私、片想いばかりしていたんだもの。結局、ミエさんがうたったんだけど」
ずっと後になって、アルバムで伊東さんも『片想い』を歌われていますが、さすがに好きだった曲という思い入れを感じます。
もの心ついてから好きだったというシンガーは、アンディ・ウィリアムスやペリー・コモ。淡々と音符に実直に歌うことを大事にしていた彼女の歌唱は、そういうアメリカのシンガーにも通じるものがあります。
1965年には、サンレモ音楽祭に参加し、イタリアのポップス、カンツォーネにも挑戦。そこで入賞し、憧れのコニー・フランシスと同じステージに立ったのでした。
「その頃私は、嫌なことがあると、アイスクリームを食べて、コニー・フランシスの歌を聴いて大泣きしてストレスを解消していたんです。だから実際にお会いできて嬉しかったです。彼女の『ボーイ・ハント』という映画が大好きなんだけれど、そのイメージのままでしたね」
サンレモ音楽祭に出演した翌年には、ヴェニス夏の音楽祭にも出場した伊東さん。イタリア人を始め、そこに集まる欧米の人たちに受け入れられたのは、その歌の言葉が届いていたということなのでしょう。
「なぜか外国語で歌った方が歌詞が入ってくる、というのは、日本でも言われていました。日本語で歌うと響かない、って言われて。私は日本人なのに、とショックでした。『さすらい』(1970年)という歌のときに作詞の吉田旺さんに『歌詞は大事に歌ってください。私たちは一曲一曲、しっかり書いているので』と言われたことがあって。一語一語、はっきり聞こえていなかったのかなあと。その頃から、日本語の歌詞の意味を大事に歌うように強く心がけるようになりました」。