平成のカラオケで一番歌われたという『残酷な天使のテーゼ』(『新世紀エヴァンゲリオン』主題歌)。そんなアニメの詞だけではなく、歌謡曲、ポップス、アイドル、ミュージカルと、さまざまなジャンルの楽曲で鋭く胸に迫る詞を書き続ける、及川眠子さん。最近はコミュニティサイト『知のアジト』をオープンし、新しい才能を育てることにも心を注いでいます。そんな近況からデビューから一貫して変わらない及川さんのものづくりへのクールな姿勢についてまで、お話が尽きません。
音楽が大好きな少女だったという及川眠子さん。作詞に辿り着くまでにはどんな道のりがあったのでしょう。
「最初はやはりアイドルや歌謡曲ですね。テレビとラジオくらいしか情報がなかった時代ですから。その後はフォークソングに傾倒しました。和歌山で生まれ育ったので、関西フォークが耳に入りやすかった。私が中学生の時にユーミンがデビューして、自分とさほど年齢の変わらない人がこんな瑞々しい楽曲を作れるなんてスゴイと感じましたが、特に影響は受けなかったです。と言うのも『山手のドルフィン』も『右に見える競馬場』も、リアリティーとして受け止められなかったんですよ。風景が自分のなかで描けないというか」
それよりも、心に届いたのは、関西フォークの人たちの胸の奥から出てくるような言葉。
「たとえば加川良の『下宿屋』。音楽仲間の下宿屋を訪ねて行ったら、湯呑み茶碗にお湯をいっぱい入れてくれて、そこの角砂糖でもかじったらと言ってくれる。その人のため息が歌のように聴こえた、と、主人公は歌います。ため息ついても聴こえはしない、それがうたなんだと…。そういった歌の方が、私にはリアルに心に響いたんですね」
まるで物語のような歌。しかし、及川さんは物語を感じながら、小説ではなく詞の世界を選びました。
「まずは音楽が好きだった、という原点があります。だから音楽の言葉をやりたかった。でも自分で歌うのは無理。裏方なんです。詞は4分で表現する物語。でも小説に書くとしたら何ヶ月もかかります。俳人の堀本裕樹さんにも、なんで詞なのですか、と言われましたけど、その文字数が気持ちよかったんです。俳句はもっと短いでしょう。私はツーハーフなんですよ。その人に合う文字数、ってあると思うんです。小説家がいい歌詞を書くとは限らないし。歌詞は音に乗る、ことが大事なんですよね」
作詞家になろうと、当時勤めていた会社を辞め、24歳で上京。それまでに2000もの歌詞をすでに書いていたそうですが。
「それまでは日記のように詞を書いていたんです。その2000の歌詞は全部捨てました。まあ野球選手になるのに1000本ノックやってました、みたいなものだから」
そして見事に1年後にコンテストで3万7000人以上のなかから最優秀賞を手にしました。受賞作は和田加奈子さんが歌った『パッシング・スルー』。
「その曲は、秋元康さんが補作詞してくださって、世の中に出ました。40万円と自動車をもらったんですが、その自動車も40万円で売って。会社も辞めちゃいましたし、留守電が入る電話を買って、さあ、これで仕事をどんどん受けるぞ、と。ところが全然。作詞の依頼なんて、いきなりには来ないんですよね。それで、自分でレコード会社へ売り込みに行きました。一応コンテストで最優秀賞をとったというと、担当者は会ってくださいましたね。結局、ポピンズの『秘密100%』と『リップスキャンダル』が、私の正真正銘のデビュー曲になりました」。