宮森家は400年続く酒蔵。本家から分家へ、それでも脈々と酒造りを続けて来たのは、誰かの強い想いが引き継がれていったからでしょう。
宮泉銘醸株式会社代表取締役社長の宮森義弘さんは、経営も酒造りも、今の時代のベストを探り続ける人。自らの手になる『冩樂(写楽)』、弟の宮森大和さんが手がける『會津宮泉』を携え、このインタビューのために上京してくださいました。
大学を出て、大手一般企業に就職していた宮森義弘さんが地元・福島県会津若松市へ戻って来たのは、2002年のことでした。
もともと、家業を継ぐつもりだったと言います。
「宮森の本家は400年続いています。分家であった祖父が昭和30年に創業して、昭和39年に会社にしました。子どもの頃から、そういう酒蔵のある場所で育って、継ぐのが当たり前だと思っていました。最初は、大学を卒業したら戻ってこようと思っていたのですが、よその釜の飯を食べた方がいい、世間にもまれて修行して来た方がいいだろうと。いきなり帰って親族が社長というのは、現場もついて来ずらいだろうというのもありました。ところが、実は、父親が呼び戻さない理由はもう一つあったんです」
その理由とは、会社の経営難でした。
「父は、なるべく会社を良い状態にしてから僕を呼び戻そうと思っていたんですね。本当に頑張っていたんですが、僕が就職して3年目に、諦めて正直に話してくれました。『蔵をたたむか、戻ってくるか、選んでくれ』と」
子どもの頃から、継ぐことを決めていた宮森さんは、もちろん「蔵に戻る」ことを選びました。
東京という日本の中心で4年間ビジネスマンとして働くうちに、美味しい料理と美味しい酒を飲み「こんな酒を造ってみたい」という夢も生まれていたからです。
「その時は、父の話だけで、帳簿の数字も見ないで戻って来たんです。その経営状態を数字で見た瞬間から”たいへん!”が始まりました」
会津若松の故郷の蔵に戻り、そこで造られていた酒を口にしても、微かな落胆がありました。
「うちの蔵の酒は、中央で飲んできた酒とは違う。けれど、それまでの杜氏もいるし、酒造りはいきなりは変えられません。経営体制のことも、酒造り本体のこともどちらもちょっとずつ考えていこう。それしかないと思いました。蔵にも入り、経営者として運営にも携わろうと」
酒造りと、経営。言葉にするのは簡単ですが、おそらく「こちらを立てればこちらが立たない」というような葛藤の始まりだったに違いありません。
蔵の酒をひと口飲んで、酒そのものを抜本的に変えなくてはいけないと悟ったのも、宮森さんの優れた感覚が育っていたからでしょう。
「もともと日本酒=あまり美味しくない、というイメージがありましたが、東京で本当に美味しいお酒に出会えたんですね。香りが良い、旨みがある。今度はそのイメージをもって、蔵に帰って来たものですから。酒の改革から始めなくてはと強く思いました」。