世の中には稀少ながらも、何か人の心に訴えかけて止まないエンタテインメントがあります。
おそらく活動写真弁士、もその一つ。
無声映画である活動写真というものが作られなくなっても、残された作品があります。今のように簡単に誰もが撮影できる時代ではなかった頃のその作品たちには、動画ではみられない歴史が刻まれているのです。また、それを再生して楽しむためには、弁士がなくてはなりません。
坂本頼光さんは、今、活動写真弁士として活躍している数少ない一人なのです。
活動写真弁士である坂本頼光さんは、1979年生まれ。もちろん、生まれたときからもはや活動写真はなかった時代。
彼がこの仕事に辿り着く前には、志したものがありました。
それが、漫画家。
「4歳のとき、祖父と散歩に立ち寄った本屋で『なんでも好きなのを買ってあげる』と言われたんです。本屋のなかを巡り、水木しげる先生の絵に一目惚れしてしまいました。そして『妖怪おもしろ大図解』という本を祖父に買ってもらい、もうずっと見ていました」
坂本さんは4歳にして水木しげるさんの絵に夢中になってしまったのでした。
「リアルタイムでは小学1年生のとき『ゲゲゲの鬼太郎』の第3期が始まったと思います。当時、同世代には鳥山明さんや高橋留美子さんの漫画が大人気でしたが、僕はひたすら水木先生のタッチを真似て描いていました。水木先生の作品には風刺画や戦記物、自分の人生を重ねた昭和史なども描いておられます。とにかく買って貰えるとなれば、ほとんど水木先生関係の本でした。お年玉も投資しました。大人向けの漫画もありますから、そりゃ変わった子になりますよね(笑)」
水木しげるさんへの憧れは募るばかり。出版社で先生の住所を聞き、手紙を二度書きましたが、返事は来ません。いよいよ小学5年のとき、西日暮里の自宅から水木先生がお住まいの調布へ『弟子にしてください』と押しかけました」
そのとき、水木さんは坂本少年をこう諭しました。
「あんたまだ少年でしょう。弟子と言われてもねえ。世の中、厳しいんですよ。大人には金塊が必要なんです。金がないと餓死します。それでもあなたが漫画に挑むと言うなら、お母さんと餓死しますよ」
そして極言の言葉を並べながらも、水木さんは坂本少年が遊びに行くことは拒みませんでした。
「よく遊びに行って、描いた絵を見てもらいました」
水木さんという人は、現実を教えながらも、坂本少年の胸の熱い火を乱暴に消すようなことはしない人だったのでしょう。