「ヤングケアラー」。本来大人が担う家事や家族の介護などを日常的に行っている、子どもや若者をそう呼びます。昨今、支援に向けて国や自治体も真剣に動き始めたヤングケアラーですが、町亞聖さんは30年以上も前にその当事者でした。日本テレビでアナウンサー、ニュースキャスター、報道記者として医療や介護の現場を取材した町さんは、仕事を続けながらご両親を看取られました。2011年にフリーになってから13年。これまでの経験や取材で出逢った様々な当事者の声などをつぶさに綴った『受援力』(法研)は、一人で頑張りがちなすべての人に必要なサポートが詰まっています。
日本テレビのアナウンサーだった時代の町亞聖さんを思い出すと、きりりと美しい、そしてどこかお嬢様っぽい風情だったと感じる方は多いのではないでしょうか。
でもその頃も、彼女は家族を支える忙しい日々を送っていたのでした。
「無理していたわけではなくて、モットーとして、その場その場で自然であろうという気持ちだったんですね。母の介護が始まったのは18歳。そこから10年で、その後、父のことも5年くらいありました。13年前、40歳でフリーになったときに『十年介護』という本を出したのですが、読んでくれた同級生や友達もこんなに大変だったのかと驚いたと言っていました。何も説明できないまま、高校を卒業してしまったので」
お母様が40歳の若さでくも膜下出血で倒れられたとき、町さんは高校3年生。弟さんが中学3年生、妹さんが小学6年生。
「母が倒れたときは、3学期の始業式の日で、寒い冬でした。2ヶ月ほどで命の危機は脱しましたが、右半身麻痺と言語障害が残りました。体重は30キロ代まで落ち、一人でご飯も食べられず、立つこともできない状態でした」
町さんは浪人して、奨学金をもらいながら大学へ行くという道を選びましたが、弟さんは、消防士の道を選びました。
「高校は公立に受かってくれたので、行かせてあげられてよかったです。奨学金をもらいながら大学へ行く方法もありましたが、彼は自ら消防士になりたいと言いました。本人は今、後悔をしていないとは言いますが、高校を卒業した段階での選択肢は、やはり限られたものであったと思います。何年かして、また大学に行けばという考えもありましたが、40~50代の余裕のある大人の学び直しとは違って、20代での学び直しは難しいですよね。 18歳での決断の段階で、経済的余裕もないわけですから。ただ、弟はその後、勉強して救急隊員になりましたので、勉強は嫌いじゃなかったんだと思います」
18歳。高校を卒業するという時期は、確かに社会でどう働いていくのか、そのためにどうするのかという大きな決断の時期。
「今もたくさんのヤングケアラーが、自分のことよりも家族を優先させ、自ら選択肢を狭めてしまっていると思います。その状況を変えないと。そのためには、学校の先生も奨学金などの情報をしっかり持っていてほしいんですが、先生も余裕がない。忙しくて、心を病む人もいるくらいですから。だから、先生も誰かに助けてもらう必要がある。地域の中で、福祉制度などに詳しい人はいますので、ぜひ人の助けを借りてほしいですね。とにかく自分でなんとかしなくちゃと自分を追い詰めないことが大事」
今、町さんはいろんな高校の1〜2年の生徒に「ヤングケアラー」についての授業をしています。
「私の体験が全てのヤングケアラーに当てはまるわけではない、と前置きはしますが。これから未来を選択する前に聞いてほしいなと思っているんです。多くの生徒にとっては他人事かもしれませんが『もし自分だったら』と想像力を働かせて聴いてくれる生徒が沢山います。大変だね、で終わらないというか。そして生徒の向こうにいる先生たちにも知ってもらいたいので、あえて授業の内容は大人に話すのと同じにしています。」