江戸時代後期に定着したと言われる講釈。現代では講談と呼ばれることが多く、女性の講談師もたくさんいます。神田京子さんは講談の世界を率いる真打の女性講談師のひとり。古典だけではなく、渋沢栄一伝や女流作家の物語など、自ら執筆して語っています。
講談への情熱をほとばしらせた弟子入り時代の話から始まる、神田京子の一代記です。
今、講談師は100人以上いて、しかもその半分くらいは女性だそうです。
「女性が支えていた時期も長いんですよ。男性は”これで食べていける”というのがセットでないと動かないし、どうしても落語の方に行く方も多いですし。ただ最近は神田伯山さんが出ていらして、だいぶ男性も増えたんじゃないですか。女性は感覚で”なんとかなるだろう”と動く人が多いような気がします。私もそのタイプですね」
彼女は大学4年生の夏休みに入門しました。
「当時89歳だった二代目神田山陽師匠の講談をかぶりつきで観て、感動してぼろぼろ涙を流しました。その後、楽屋に駆け込んで、山陽さんの弟子になりたいんです、どうしたらいいでしょう、と。そうしたら姉弟子が『もううちは取らないと思うけど』と言いながらも、自分の連絡先を教えてくれました。それで『明日、ちょうどお稽古に行くから、一緒に行きますか、病院だけど』と」
神田山陽さんは、入院しながらたまに高座に出ておられた時期だったのでした。病院に訪ねていくと、ベッドの上で、訪ねてきた女子大生にすぐ入門を許可したのです。
「体調も良かったんでしょうね。私の顔を見るなり『やってみたまえ』と。そうして『なぜ僕に入門したいのかだけ、このメモに3行で書きなさい』とおっしゃって。私は『師匠の昨日の高座を観て、芸は生きざまだと思いました』と書いて渡しました。『じゃあ、君は今日突然来たからきょうこ、だね』という駄洒落で京子と名付けられました」
あまりにもトントン拍子な入門でしたが、一門の人たちは大反対になりました。それまでほとんど弟子入りを断っていたのに、師匠はどうしてしまったのかと。
「なんと言っても89歳ですからね。弟子たちは普通に心配したんですよね。『何かを学ぶったって大変だし、あなたは大学生なんだから、そちらの勉強に身を入れたほうがいい』と。でも私は反骨精神の塊なんですね。やめろと言われれば言われるほど、絶対にやります、と」
神田京子さんは翌日から入院中の師匠の元に通い始めました。
「師匠はずっと寝て起きないようなときもありましたし、急に介護が始まったような感じです。下着の着替えなどプライベートなことは看護師さんがされましたが、背中をさすったり、手を揉んだり。入れ歯を洗ったり。でも名人の入れ歯だと思うと、嬉々としてやっていました。元気な時は叩き起こして、一方的に覚えた話を聞いてもらったりもしました。師匠はときどき『男はこういう姿勢だ』『子どもが話すときは目線はこうだ』などと、ちょっと教えてくださる。それを見て、何か伝えようとしてくださっている、その何かを感じればいいんだ、と。そういう日々が、だいたい1年3ヶ月続きました」
彼女は「芸への本気」を行動で示しました。
「何を言っても言葉では信用されません。だから、行動で示すしかないと。師匠のところへ行かない日は、楽屋へ通って、着物の畳み方やお茶の出し方を教えてもらいました。前座として高座にも上がりました。下手で何もわからないけど上がった。そうこうするうちに、師匠の状態が悪くなり、姉さん方も病院にたくさん見えて『あ、京子ちゃんって本当に師匠のことやってるじゃないの』と。そのとき、一番病院で会う数の多かった神田陽子に、師匠が亡くなった後は入門しました」。