反対はしなかった父・たい平さんですが、修行後は完璧に「師匠」だった。
「まずは付き人もさせてもらえず、内弟子のように家のことを全部やれと。実家だから家事を手伝うのは当たり前なんですが、僕はそれまでやっていなかったんです。それから山積みになっている師匠のインタビュー記事のスクラップ整理、着物のたたみ方。それも『俺と同じように早くたためるようになるまで仕事へは連れていかない』と言われまして」
外へ出られるのは、師匠を迎えに行くときだけ。だいたい終演から想像し、何時に帰ってくるかわからないので、駅前のベンチに座って、1本ずつ電車が来るたびに立ち上がって改札へ行ったとか。
「入門から1年ぐらい経った秋には、家族としてもぎこちなくなってしまいました。そんなときに、林家木久扇師匠が『そんなに厳しくしても良くはならないよ。落語は世襲でやるもんじゃないんだから』という言葉をいただいて『家の中では家族でいよう』ということになりました」
たい平さんが父親というより師匠一色になってしまったことで、実は相当なストレスがあったようだ。
「いろんな食べ物にアレルギーが出て食べられなくなってしまいまして。今思えば、そんな経験も多少良かったとは思います。でもあれが6年くらい続いたら死んでいたかもしれません(苦笑)。今はもう、すっかりなんでも食べられて元気です」
初高座は2019年8月10日の横浜・にぎわい座で「転失気」を披露。奇しくも小4のときの初舞台もにぎわい座だった。
「たい平が『ピアノ奏者ならピアノを教えるだろうし、自分が教えられるのは落語しかないから』と、教えられたんですが、その頃はただ必死で覚えただけ。それきり、やったことはありませんでした」
そんな話を聞くと、咲太朗さんが「落語家になりたい」と言ったとき、たい平さんは実はものすごく嬉しかったのではないだろうか、と思えてくる。

二つ目になるのには、弟子入りしてから6年かかった。
「たい平からは『4年は修行だよ』と言われていましたが、長くなった分、準備もできたかと思います。ただコロナの期間は、お客様に見てもらえる機会が少なかったので。やっぱりお客様に見てもらわないと成長しないんですよね。ありがたいことに、たい平の会はたくさんお客様がいらっしゃるので、その点でもありがたいです」
たい平の会では、子どもが出てくる噺をやることが多い。
「『初天神』が大好きですね。子どもの頃の秩父夜祭の思い出もあるので、自分を重ねやすかったりします。昨年夏に渋谷で二つ目の昇進披露会をやったときは『浜野矩随(はまののりゆき)』をやらせていただきました。職人の2世の話で、どうにもならなかった男がちょっとしたきっかけで頑張りだす、という噺。そこもまあ、自分を重ねられるなと思いまして。ただ本来、落語は泥棒やおのぼりさん、いろんな人も出てきますから」
自分が重ねやすいものは十八番にしつつ、そうではないものも自分のものにしていかないといけないのかもしれない。
今は2ヶ月に1回、新宿で舞台に上がる。
「先日初めて1日に独演会を2つやりました。師匠クラスの人たちは特に正月は4席、5席とかけるので、体力もないといけないなと思います。二つ目に上がるときに、宣材写真のために3ヶ月お酒を抜いてダイエットしたんですが、今、しっかりリバウンドしてしまいました」
目指すのは「わかりやすい噺」。
「伝わらないと笑えないし、わかりやすいのが一番だなと。落語というもののイメージを変えていきたいです」
咲太朗さんなりの新作落語もこれから生まれてきそうで楽しみだ。
「大学を選ぶとき、哲学科に入りたいと思っていたんです。哲学が好きなんですよ。人は、って考えたりするのが好きで。落語にはジェンダーとか差別とかないんですよ。悪人も悪人として描かない。そういう落語の哲学でみんなで優しい世界をつくれたらと思いますね。そういう意味で、人間を考えるときに、落語と哲学は通じています。温故知新というか落語の中にある江戸時代から学べることもいろいろあるんじゃないかと思っています」。
