チェッカーズの楽曲や、アニメ『タッチ』の主題歌や挿入歌など、たくさんのヒット曲で知られる作曲家・芹澤廣明さんは、このほど、全米でCDデビューを果たされました。16歳から始まった音楽人生が70歳の全米デビューに至ったのです。青春を生き続ける芹澤さんに、その人生や好きな香りについて話していただきました。
芹澤廣明さんが音楽活動を始めたのは、高校生。まさに青春真っ只中の頃、それは生活費を稼ぐという動機から始まったのだそうです。
「高校1年生といえば16歳だよね。それから20歳になる4~5年の間、米軍キャンプでR&Bを弾いていました。和田、立川、横田、広島、岩国、横須賀…あちこち行きましたよ。まあ、音が出ていれば喜んでくれるからね(笑)。ベトナムあたりへ派兵される前に日本に立ち寄る兵隊たちが多かった時代です。僕は生活費を稼ぎたくて始めたのだけれど、20歳のときはトライアンフのスピットファイヤーなんていう車に乗っていましたから。かなり稼いだのでしょう。金曜の夜から行って、土、日。月曜はくたびれて休むし、学校には週2〜3日しか行ってませんでした」
水色の車体に白いトップのトライアンフ。当時から芹澤さんはさぞかしかっこいい20歳だったのでしょう。でも見た目だけでなく、そこでかっこいい音楽を生み出すための努力もされていました。
「18歳くらいからかなあ。これは勉強しなくちゃダメだなと思い始めました。学校は行ってないし、音楽をやるなら、学校行くくらいの勉強はしなくちゃと思い始めて、独学で始めたのです。まあ、出来の悪い子どもがギターばっかり弾いていてなんとなくうまくいっちゃったのが俺ですよ(笑)」。
その後、グループサウンズ「バロンズ」を結成、ギタリストであり、ボーカリストとしても活動します。そして、作曲家としては中森明菜の『少女A』が大ヒット。チェッカーズのプロデューサー兼作曲家としても大ヒットを続けることとなりました。
「彼らはオリジナルが1曲しかない状況で上京してきました。19~20歳の子どもたち。一番下は18歳だったからね。それをまとめるのは大変ですよ。彼らは不良じゃなくて、粋がってる、とんがってるタイプの子たちだった。僕は年季の入った不良だから(笑)、うまくいったのかもしれません」。
芹澤さんが10代から音楽で身を立ててきた覇気のようなものを、彼らはリスペクトしたのではないでしょうか。