ヨーロッパに学び、稀少な本格派パントマイマーとしての活動を長らく続けながら、ミュージシャンとしてのライブ活動も行う北京一さん。最近ではまた北京一京二の漫才も復活させ、話題になっています。「好きなことをして生きる」ことを突き詰め続ける原点のような北さんに、身体表現の面白さを語っていただきました。
北京一さんが芸能界に脚を踏み入れたのは19歳のとき。当時、コミックマジックで人気のあったゼンジー北京さんに弟子入りし、アシスタントをしていました。そのとき出会ったのが、当時大阪のグループサウンズとして人気だった「ファンキープリンス」の2代目ボーカル、松井信。
「同じ事務所だからよく会っていて『漫才をやってみようか』という話になったのです。そこでコンビを組んだのが北京一京二。当時の名プロデューサー、澤田隆治さんに『やすきよの次は君らだ』と言われ、テレビで何本もレギュラーをもらいました」
しかし、人気がうなぎのぼりになるなか、京二さんは再び音楽の世界に戻り、北京一さんはすべてを捨ててアメリカへ行くことに。
「結局漫才は2年しかやりませんでした。ヒッピージェネレーションがあり、私もテレビはださいという空気に乗っていたんでしょう。僕は1974年に渡米してアメリカで家族をもち、次第にコメディからパントマイムの世界にひかれていきました」
アメリカ、ハリウッドのパントマイムではどうも納得がいかない。もっともっとパントマイムの真髄を知りたい。好きなものはとことん極めたい… そう思う北さんがたどり着いたのは、ヨーロッパ。パントマイムの元祖、エティエンヌ・ドクルーでした。
「1930年、パリで、ジャック・コポーが学長となってヴィユ・コロンビエという学校ができました。そこで身体演技を教えていたのが、エティエンヌ・ドクルーで、彼のクラスにいたのがその後有名になるマルセル・マルソーであり、ジャン・ルイ・バローだったのです。私は1981年にドクルーのところへ行きました。まさに思っていたパントマイムがそこにありました。セリフを超えた肉体の演技があったのです!」。