大阪に「FUNKY MUSIC STATION」と銘打ったFM802が開局して30周年。同局の最初のオーディションで選ばれてDJになった山添まりさんは、時の流れとともにしゃべり続けてきました。今は同局が「45歳以上」の大人のラジオとして運営するFM cocoloで、その落ち着いた美声を聴かせてくれています。これまでのDJ人生を振り返りつつ、大好きなハーブの香りについて教えてもらいました。
自らを「ラジオっ子」だったと語る山添まりさん。深夜放送を聴き始めたのは、まだ新潟に住んでいた小学5年生のとき。
「深夜にニッポン放送のかまやつひろしさんの番組を聴いていましたね。その番組を作っていた方が、偶然FM802の開局時の編成部長だったのですよ。ラジオというのは、そういうふうに人がつながっているのも面白いですね。その後、山本さゆりさん、湯川れい子さんの番組なども楽しく聴かせてもらって、洋楽が大好きになっていきました」
中学高校は放送部へ。大学生になると、ラジオ関東(現在のラジオ日本)の番組『サウンド・プロセッサー』のレポーターに応募、合格して、3人のレポーターのうちの1人になりました。
「当時『電スケ』と呼ばれた重たい録音機材を肩から下げて、レッドシューズというロック・バーの取材に行ったりしました。その後は別の番組の電リクのスタッフをやらせてもらったり。そうこうしているうちに、ロック系の音楽情報誌の編集長に『ライターにならない?』と勧められたりしましたが『OLになりたいんです』と言ってしまいました。結局、3年3ヶ月OLをやって、結婚して大阪に来て、半年くらいたった頃、FM802のオーディションを受けたのでした」
FM802が開局する前の大阪は音楽がたくさんかかる放送局がなく「なぜこんなに音楽がないんだろう」とまりさんは不思議に思っていたと言います。そんなとき、彼女の夫がFM雑誌で802が新人DJを募集していることを知り、勧めてくれたのだとか。
「家にマイクがないから、ヘッドフォンの耳のところを二つ合わせて、そのコードをマイクジャックに差し込んで、自分の声を録ったのです」
そんなレアな技があったとは初耳。実は筆者はそのデモテープを当時FM802の編成部員として聴いたのですが、とてもよく録れていました。
ラジオのDJを始めて、一番嬉しかったのは、まずファンだったアーティストたちに会えたこと。
「ブライアン・アダムス、クリッシー・ハインド、スティング。…本当に名前を挙げるときりがないですが、音楽を大事にするFM802という局にいたからこそ、たくさんのアーティストに会ってきました。取材に行くこともあれば、局に来てくれることもあります。チープ・トリックが全員来たときはびっくりしました。
OASISのときは『一人だけのリスナーのためにOASISがライブをする』というすごい企画で(笑)」
アーティストに会うことが普通になった今、一番嬉しいのは、リスナーの人に「まりさんのラジオを聴いて、そこからそのアーティストや曲にはまりました」と言ってもらえることだそう。
「FM802で、開局の89年から96〜7年まで続いた『Afternoon Magic』という昼の生ワイドを辞めるとき、リスナーからすごく長いファックスが来たんです。バンドの名前がずらーっと書いてあって『いたずらかな?』なんて、みんなで怖がっていたら、最後に『これはすべて番組でまりさんに教えてもらったバンドです。ありがとう!』と書いてあって、本当に感動しました」
FM cocoloに移ってからは、さらに楽しみも増えました。
「ジャンルレスにかけられるし、幅広くいろんな音楽をかけることができる楽しさがありますね。それにcocoloを聴いている世代はいろんなものに興味があるので、私も学んで掘り下げていきたい。少しでも質のいいラジオ番組をと思います。みんながいい音楽に気持ちよく出会えるような時間が増えてほしいですから」。