大きな目がやさしく微笑んでいるような三遊亭小遊三さん。1983年以来「笑点」の大喜利メンバーとしておなじみですが、高校、大学時代は卓球選手としてならし、東京オリンピック、長野オリンピックと聖火ランナーを務めた経験もおもちです。明治大学在学中に3代目三遊亭遊三に弟子入り。学生時代に出会った香りの思い出まで、まるで昨日のことのように語ってくださいました。
三遊亭小遊三さんが明治大学に通っていた頃は、まさに学生運動真っ盛りでした。
「学園紛争の時代ですからね。学校封鎖で卒業証書ももらえない。私は体育会卓球部だから、どちらかというとバリケードを壊しにいく側なんだけどね。一度だけ、秋田明大(当時の日大全共闘議長)が演説に来るっていうので、聴きにいきました。でも頭から尻尾まで何を言ってるか全然わかんねえんだ(笑)。今日を幸せに生きられたらいいじゃないか、ねえ」
卓球ではご飯を食べていく実力がない。就職を考えたとき、ふと、頭に浮かんだのが、落語でした。
「学校は紛争で授業も卓球の練習もなくなっちゃった。それで新宿の末広亭あたりの路地へふらふら入ったら『落語かあ。…まだこんなことやってんだ』と、思い出した。私は小学生の頃から落語をやってました。ラジオで聴いて憶えたんですよ。だからラジオでやる回数が多い噺を憶えたね」
先代の三遊亭金馬。4代目の柳亭痴楽。噺は『道具屋』、『平林』、『堀の内』 、『まんじゅうこわい』、『たらちね』。…しかし録音もままならない時代、必死に聴いて速記するのを友人が教えてくれたそう。
「三輪くんっていう友達がね。耳から入ってきたものを書けば、ストーリーもわかるよというわけ。彼のほうが上手かった。6年生の3学期に転校しちゃうんだけど、大人の前で一緒に落語をやりました。今は雫石でペンションさんりんしゃを経営しているよ」
そこで楽しかった落語を仕事にしようと思いたち、大学在学中に3代目三遊亭遊三師匠の門を叩きました。
「落語家にでもなるか、ってね。でもどうやっていいかわからなかったから、まず弟子入りだよね。でも『弟子にしてください』って言って『よく来たね』と言ってくれる人は一人もいないよ。家族も大反対。両親も兄も烈火のごとく怒った。親戚には『気が違った』と言われました。いたってまともだったんだけどさ」。
「保証人を連れてこい」と言われ、一緒に行ってくれたのはお姉様でした。
「姉が、しょうがない、行ってあげる、と。真打になったときは、兄も両親ももういなくて、ひとまわり上のその姉は喜んでくれました」
落語家になって辛かったことはと尋ねると、にっこり笑顔が返ってきました。
「辛かったことは何もない。楽ですよ。うさぎ跳びも腕立て伏せもないんだから(笑)」
辛いことを語るのは粋ではないと思っておられるのでしょう。
学生時代に6代目三遊亭圓生師匠のお宅に伺ったことがあるそうですが、その時の香りは忘れられないと言います。
「生まれて初めてかいだ匂いだった。そしてそれ以来、その香りをかいでいないのです。お香がたいてあったのだと思うのですが、忘れがたい、鮮烈ないい匂いでした。うちで使っている線香とは訳が違うなと思いました。もう一度会いたい香りだね」
すべてのものに「香り」があると小遊三さんはきっぱりと言います。
「思い出の景色。ふるさとの山々。懐かしい街並み。歌声。そこには匂いがあるんですよ。香りは青春の思い出にこびりついているんだなあ」
五感を大事に話してこられているのだなあと感じるお話です。