89年に名門・ボストンのバークリー音楽大学を首席で卒業し、その後ニューヨークへ。日本に帰国後も第一線で活躍し、一時期、休止期間を経て、最近、24年ぶりに全編ライブ録音によるアルバム『JATROIT』を発売した大西順子さん。
彼女の奏でる音は、音源からも遠く近くビビッドに聴こえ、まるで遠近法の生きた一枚の絵画を見るようです。2013年、小沢征爾さん指揮によるサイトウキネンオーケストラと共演したのを機に、また2015年の東京ジャズから積極的に活躍する彼女に会うことができました。
大西順子さんは、1994年にニュヨークのヴィレッジ・ヴァンガードで日本人初のリーダー出演を果たしていることでも有名。颯爽とした演奏に、昨今、さらに磨きがかかっています。
9月22日、突発的に行われた六本木・アルフィーでのライブも、間際の告知に関わらず超満員。ベースに若井俊也、ドラムスに中村雄二郎という比較的若いミュージシャンを従え、大西さんは颯爽と登場しました。
ほぼ曲名を告げることなく、立て続けに演奏する90分1本スタイル。その迫力とテンションに観客席からはため息とも唸り声ともつかない声がもれます。
ニューアルバムからのオリジナル曲も、また違った解釈で楽しめるクールなライブでした。
実は筆者は‘97年ごろ、週刊誌の対談で大西順子さんにお会いしています。その当時の印象は、太陽が似合わない感じの近寄りがたい大人の風情。
しかし、時を経てお会いした今回の彼女は、健康的でスポーティー、笑顔の似合う爽やかな女性になっていました。
「帰国したばかりのあの頃は、生涯で一番不健康でした。煙草は1日4箱吸っていましたから」
今は週に3回は泳いでいるといいます。
「私、もともと水が怖くて泳げなかったのですよ。40歳を過ぎて習い始めました。当初は2回行ってみてやっぱり無理、逃げたいと思って一度辞めました。でもなんとか克服したいなと思い始めて、もう一度通い始めたのです。私はとっつきは悪いけどはまったらやる、というタイプ。合点がいくのに少し時間がいるのです。年を重ねて、いったん頭で考えないと何事も身に付かないのかもしれません」
今や「しばらく泳がないと気持ちが悪い」と思えるように。アーティストもアスリートも集中力が半端ない人たちなのでしょう。
4歳から始めたピアノがジャズへと移行していったのは、お兄様がもっていた1枚のアルバムがきっかけでした。
「大学生だった兄は、当時のブームだったクロスオーバーをよく聴いていました。そのレコードのなかに1枚だけ、セロニアス・モンクのアルバムがあったのです。 クロスオーバー好きな兄にしてみたらあまり惹かれなかったのか、ほうってあった1枚。それを17歳の私が発掘して興味をもったのです」
東京・国立の女子高生だった大西さんは、あまり学校が好きではなかったよう。
「私は落ちこぼれていましたよ。というか、やりたいこともないし、行っているのか行ってないのかわからないし(笑)」
バークリー音楽大学への道を選び、ボストンへ留学したときは、まだ英語もおぼろげだったようです。
「日本人もいたので『今、あの人、なんて言ったの』なんて聞きながら。ちゃんと英語に向き合ったのは、渡米して3年後、1人でニューヨークへ出たときからです。ツアーに入ると嫌でも周りに日本人は一人もいない。スラングばかりの英語に埋もれました。たとえばね、管楽器のことをaxと言うの。そこで覚えたことはそのまま入っているから、私の英語はきっと今もきれいじゃないですよ」
大西さんには卓越した演奏というコミュニケーションの手段がありました。
「始まりはミーハー心が強かったですね。ジョン・ヘンダーソン、ジャッキー・マクリーン、アート・ブレイキー、ディジー・ガレスピー、…名だたるレジェンドとぎりぎり共演できました。それは夢だったし、その夢はだいたい叶いました」
偉大なミュージシャンたちをリスペクトするのも、コミュニケーションを取り合うのも、ピアノ。彼女の音には、そこで得た信頼や愛情も染み込んでいるような気がします。