脳性麻痺という障害を抱えながら、圧倒的な努力とポジティブさでプロのバイオリニストとなった式町水晶さん。ひたすら前を向き、底抜けに明るい音を奏でる姿に勇気づけられるファンが増えています。
水晶と書いて「みずき」と読みます。式町さんが命に危機のある状態の未熟児で生まれてきたとき、彼の母親が「水晶は持ち主を守ってくれて願いを叶えてくれる石だから」と、つけた名前でした。
式町さんはそんな話をずっと笑顔で語ってくれます。
「僕は小脳も人の半分以下しかありません。子どもの頃から病弱で、15歳までは車椅子でした。一言に脳性麻痺といっても、人によっていろんなタイプがあるのですが、僕はそういう状況でした。たとえばコップをもつのにどれくらいの力を入れたらいいのかがわからない。力をうまくコントロールできず、どちらかというと入れすぎてしまうのです」
しかしどんなふうに成長していくのかわからない状況で、1歳のとき、ある才能の兆しがありました。
「家族でディズニーランドに行ったとき、祖父におんぶされていた1歳の僕が、『It’a small world』のメロディをすぐに覚えて口ずさんだそうなのです。それで、家族が『この子は音楽的な才能があるんじゃないか』と気づいたそうです」
その才能は、やがてバイオリンに向かうことになります。
「4歳になると母親は何かリハビリをさせたほうがいいと、空手をやらせたり、リトミックが流行っていたのでピアノをやらせたりしてみたようです。でも、僕にはバランス障害があって、ピアノは座位が取れない。ピアノ教室の帰り道、母はショーケースにバイオリンを見つけたのでした。その奥で、小さい男の子がバイオリンを弾いていた。あ、これはいいかもしれないという母のひらめきで、バイオリンを習うことになったのです」
式町さんは母親と川口市のバイオリンの先生のもとへ通い始めます。
「最初に左手で弦を押さえない開放弦の状態で、弓を弾いたとき、わりと好きな音が出たのです。それで、小さい子ども用のバイオリンを買ってもらって、リハビリも兼ねてなるべく立って弾くようにしました。当初は母にも僕にもバイオリンが高級なものというイメージがなくて、日常、まるで歯磨きをするのが当たり前みたいな感じで弾いてなじんでいきました。30分弾いて2時間休む。立っているのは10分が限界でしたから」
医者はバイオリンがリハビリになっているということに、前例がないと驚いたそうです。
「母の判断は間違ってなかったのですね。僕自身も、ちっちゃい頃のほうが大人だったような気がします。何ができて、何ができないか、わかっていたのですから」
12歳のときには医師から失明宣告を受け、14歳のときには「15歳で寝たきりになる」と言われながら、21歳でプロデビューするに至るには、想像を絶することがあったのでしょう。
小6のときには、耐え難いいじめも経験しました。車椅子に画鋲を置かれたり、蹴られたり。クラスメイトに無視されるということまで。
「いろんな病気を併発して、体調も最悪でした。バイオリンも辞めたいと思いました。そんなとき、11歳からバイオリンを教えてくださっていた中西俊博先生が『僕は健常者だから、君の障害がつらいという気持ちを、正直、わかってあげることはできない。わかってあげられなくて、僕もつらいよ』と言って、涙を浮かべて抱きしめてくださったのです。その気持ちが本当に伝わってきて、嬉しくて、また頑張ろうと思いました。バイオリンのおかげで出会える人はみんな大好きです。それは今もそう思います」
祖母の発案で、刑務所で慰問演奏をしてみたらという話もうまくいき、彼はそのために『孤独の戦士』という曲を書き上げました。そして、八王子医療刑務所で、彼は初めてコンサートを開きます。当時流行っていた『冬のソナタ』の主題歌や、美空ひばりさんの『愛燦燦』など、自身で考えて構成したそうです。
「『孤独の戦士』を演奏すると、本当は拍手をしちゃダメなのに、皆さんが拍手をしてくれました。コンサートの後も、たくさん手紙をもらいました。地元の新聞に取り上げられ、教育委員会から児童賞をもらいました。でもね、中学時代はまたいろいろあったんですよ」
思春期の壁。たとえば中2のとき、体育祭で、80m走に出ることになりました。
「先生が歩きながらでもいいから、やってみたら、と。祖母と母と、土手へ練習しに行きましたよ。最初は20分かかってへろへろになった。でも走ることをやってみたかった。で、本番でね、80m走って最後、ほかの子を抜いちゃったんですよ。そうしたらみんなから『なんで抜いたの。その子のこと考えてあげないと』って言われて、傷ついて帰ってきました。ただ自分のために走っちゃダメなのかな、って」
気持ちが少しくさりかけたとき、彼を再び変えたのが、東日本大震災でした。
被災地への慰問演奏をしたいと、6月には岩手の陸前高田へ、8月には南三陸などの沿岸部へ出かけていきました。
「そうしたら、被災地の子どもに『おにいちゃん、がんばってね』って言われたんですよ。被災地のほうが大変な状況なのに。そのとき、僕は思いました。人は簡単には変われないけど、僕も少しは変わらないといけない、って。僕はそれまでいじめや偏見と闘って、バイオリンを武器だと思っていたけど、せめて誰かの役に立つものにしないといけない、って」
そう思った彼に、陸前高田市の浜辺に生き残った奇跡の一本松の木片を「魂柱」に使用した「TSUNAMIバイオリン」との出会いががありました。全国各地でプロもアマチュアも、いろんな演奏家がリレー形式にこのバイオリンを使って演奏し、被災地への思いをつないでいく。そのうちの1台を中澤宗幸さんが式町さんに託したのです。
「中澤先生は僕におっしゃいました。『体が痛くても、障害があっても、君には使命があるからやめちゃダメ。君には根性がある。痛みを超えられる』って、満面の笑みで。1回塩水に浸かった木でいいバイオリンなんかできるわけがないという人もいるけれど、奇跡的に音も出るのです」
式町さんの優しい心が楽器にこもったのかもしれません。