しっとりとした潤いのあるハスキーボイスで、大人の歌をうたえるシンガーとして人気の増田惠子さん。‘76年にピンク・レディーの一人としてデビュー、世の中に大旋風を起こしたアイドル時代から今日までそのひたむきな姿勢は変わりません。今ここにあるのは「歌う喜び」と一期一会を大事にする生き方です。
デビュー曲の『ペッパー警部』から数々の大ヒット曲を連発し、アメリカ進出までしたピンク・レディー。増田惠子さんが片翼を担ったそのデュオは4年7ヶ月の日々を駆け抜けました。
「3歳のときから歌って踊るのが大好きな子どもで、いつか歌手になりたいと思っていました。デビューが決まり、大好きなことを仕事にするのだから、100% のものを皆さんに届けたいと、いただいた仕事のひとつひとつを精一杯頑張ってきました」
睡眠時間が3時間あったとしても、踊りや歌詞を覚える時間もそこに含まれていたそうです。
「シングルは3ヶ月に1枚でしたが、当時はテレビの歌番組もたくさんありましたし、CM撮影やコンサートがとても多くて常に移動していましたね」
1981年の解散後も何度か再結成し、2004~5年には100カ所200公演という快挙も成し遂げています。
「2004~5年の2年間は1日2公演でした。1ステージが2時間15分くらいあり、次の公演までのインターバルは1時間。30分はマッサージ、メイクを直して2度目のステージ。2人とも40代半ばですから、よく頑張ったと思います」
その後、2人は2010年には「解散」を取り下げ「死ぬまでピンク・レディー宣言」をしました。2011年には50代となっても全国24カ所でコンサートを開催したのです。
やっぱりピンク・レディーをずっと続けよう。増田さんは2人がそう決めた心境の変化をこんなふうに語ってくれました。
「79~80年代のコンサートと、2004~5年のコンサートとでは、ステージから見る景色がまったく違ったのです。昔は客席から声援してくれる若い人たちの姿だけでした。けれども今は小さな子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、親子3世代の人たちが1曲目から総立ちで一緒に踊って歌ってくれるという景色になったのです。私たちのような、いえ、私たちより派手なきらきらの衣装を着てくださっている人もたくさんいます。そして世代を超え、性別を超え、きらきらと瞳が輝いているのです。そんなお客様の姿を見られた幸福感。感動を味わえて、本当に私は幸せでした。もちろん、2ステージを歌い踊るのは大変でしたが、お客様とのエネルギーを交換するうちにこちらが動かされてしまったようなところがありました」
共に踊り、共に歌う。客席もステージになってしまうようなコンサート。ピンク・レディーが一時いなくなっても、ファンの人たちはずっとずっと彼女たちの曲を踊り、歌ってきたのでしょう。
「一度スポットライトを浴びたから忘れられないのでしょう、と言う人もいますが、ファンとともに踊り歌うのは、それよりもっと幸福な光景ですよ。エンタテインメントは人を幸福にする、その原点だと思います。誰かが喜んでくれるから、人生の大変なときも笑顔で乗り越えられる。私自身、これほどの幸せはないなあと思うのです」。
ソロシンガー「増田惠子」としての活動も今年で39年目。今も週5日は1時間程度のボイストレーニングを欠かしません。
「歌いこなす、というより、1回1回、1曲1曲に心を込めて歌っています。40代から声帯の筋肉が衰えると聞いたので、30代後半からボイストレーニングを続けています。週5日は1時間弱、自主トレを。3ヶ月に1回、先生のところでチェックしてもらいます」
歌うための体作りも怠っていません。
「クラシックバレエは30年続けています。この7~8年はピラティスも。体幹をしっかり作ることは歌うことにつながりますし、健康のためにもよいようです」
日々の積み重ねに余念のない増田さん。完璧を求める心には今も昔も変わりがないようです。
「年齢を重ねることで歌の深さ、言霊を伝えることの喜びと難しさを感じています。それはプロになる前の思いとも重なるのです。これで良し、という100点はないのですよね。その日の自分の思い、状況で歌い方も伝わり方も違う。伝わったかな、と少しでも思えたときの幸福感はかけがえのないものです」
さる12月には東京・よみうり大手町ホールでコンサートを終えたばかり。この頃はピンク・レディーの曲も一人で歌ったりしているそう。
「3年前まではソロの曲がほとんどで、ピンク・レディー時代の曲はジャジーなアレンジで3曲くらい歌うだけでした。でもしばらく2人でやっていないし、聴きたいというリクエストも多いので、最近は原曲アレンジで5~6曲歌って踊っています」
秋頃にはソロとしての新譜を出す予定もあるそうです。