今年はデビュー55周年を迎え、歌手として、オピニオン・リーダーとして、多くの人の心をとらえている加藤登紀子さん。最近ではテレビ『プレバト』で、絵と向き合う少女のような初々しさも新鮮です。
登紀子さんは1964年にシャンソンコンクールに挑戦し、翌‘65年には2度目の挑戦で優勝。それを機にデビューしてから自分の歌を模索した数年間の、知られざる大きな葛藤を語っていただきました。
3年ぶり、2度目のフレグラボ登場です!
「歌い続けて半世紀を超えましたね」。
加藤登紀子さんは、インタビューの始まりに、まるでタイトルを置くように、静かにそうおっしゃいました。
ウィルス禍にさんざめく2020年3月の東京。それでも取材を受けてくださったことに感謝しながら、筆者も彼女と初めて会って35年経つことにしみじみ感慨をもっていました。
いつもしなやかに、かつ毅然と歌い続けていらっしゃる印象があります。
しかし、最初からプロの歌手としてうたっていこうという強い思いはなかったそうです。
「1964年のシャンソン・コンクールへの初挑戦は、私の父が勝手に申し込んだのです。そこで万が一、優勝していたら歌手にはなっていなかったでしょう。優勝したら海外へ行くことができる。私はそれが目当てだったのです。結果は4位。
選んだエディット・ピアフの歌が大人すぎたのですね。でもシャンソン評論家の第一人者だった葦原英了さんが『絶対に来年も来なさいよ』と言ってくださった。そこから本気でレッスンに通い始めて、フランス語の歌詞と和訳の違いを調べたりしました」
当時まだ丸山姓だった美輪明宏が出演するシャンソンの店、銀巴里の昼間のライブで歌っていたりしたそうです。
それにしても、当時、愛娘にシャンソンを歌わせようとした登紀子さんのお父様の洒脱さ。どういう方だったのでしょう。
「当時、父は内幸町の飛行会館にあったスタジオで働いていました。そのスタジオで、永六輔さんや中村八大さんがあの『夢で逢いましょう』の歌などを録音されていたの。そこには寄席や劇場もありました。でも私は父の庇護のもとで歌うのは嫌だったのね」
シャンソンコンクールは、日本のシャンソン界の草分け、石井好子さんの事務所の主催。スポーツニッポン新聞社やエールフランスが後援していました。
優勝した登紀子さんは、石井好子事務所の所属となり、ホテルオークラや大きなキャバレーでシャンソンを歌ったそうです。
「中村八大さんのコンサートでも2〜3年歌わせてもらいました。歌手としては恵まれたスタートでしたね。でもレパートリーも少ないし、作詞作曲もできない。私は歌手の見習い期間中に本業になっちゃったように感じていました。3年が過ぎ、大学を卒業する年に、東大が卒業式をボイコットするという歴史に遭遇したのでした。事前撮影をし、女性週刊誌に載るはずだった私の振り袖姿の写真は、一気に虚構となったのです」
1968年春。登紀子さんは揺れていました。その頃、藤本敏夫という、後に夫となる活動家と知り合っていたことが彼女の歴史そのものをも、変えようとしていたのです。